6月28日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈を
している場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約6月28日「人生の終末の準備」
創世記45:16~28
現在の日本は超高齢化社会へと向かっています。それだけ、人生の終末期のあり方を再考すべきときが来ているのだとも言えます。特に死の問題は大切な課題です。人は高齢になればなるほど死を身近に感じるものだからです。しかし実のところ、死は年齢と共に私たちに迫ってくるものではありません。私たちはこの世に生を受けたその瞬間から常に死に迫られている存在なのです。生とは常に死への準備であり、特に礼拝はその中心になります。この世に憎しみや怨みを残した死は準備の十分な死とは言えません。主の御心を知り、心を安らかにすることが死への何よりの準備です。
ヨセフは兄達に裏切られ、奴隷となり、囚人となりました。今でこそエジプトの「総理大臣」になりましたが、兄達を怨んでいても無理のないことです。しかしヨセフは兄達を赦し、和解しました。ヨセフは常に神の御心を知っていた故に、兄達を怨まなかったのです。
パロはこの和解の知らせを受けて、大変喜びました。なぜならパロはヨセフを信頼し、愛していたからです。パロはヤコブを始め、ヨセフの家族全員をエジプトに招きました。そしてその家族にエジプトの最良の地を与えると約束しました。その時パロは一言、付け加えました。「家財に未練を残してはならない」と。カナンにある彼らの財産はすべて置いて、エジプトに来るように命じたのです。それはもちろん、カナンにある財産よりもはるかに多くの財産をエジプトで与えるという約束の裏返しです。
このパロの言葉は、主イエスの私たちに対する招きに似ています。私たちは主に従う時、次なる恵みは今受けている恵みよりも大きいのですから、今受けている恵みに執着してしがみついてはいけないのです。一つの恵み、一つの場所から離れる時、人はどうしても不安を覚えます。しかし、その不安こそが信仰を鍛えるのです。不安を覚えるのは決して不信仰でも不健全でもありません。不安がある故に信仰が問われるのです、否、不安そのものが信仰への問いだと言えます。大きな不安を乗り越えたときこそ、信仰は大きく、強くなります。入学や就職、転職、結婚、退職など、ライフステージが変わる時、人は不安に陥ります。その時に、その不安を乗り越えて、次なる恵みは今の恵みよりもさらに大きいことを信じ、勇気と信仰を持って一歩を踏み出せるか否かが大切なことです。
私たちは誰でも死を迎えます。それは人生で最大のライフステージの転換であるとも言えます。その時、すべての財産は地上に置いて行かなくてはいけません。何一つ持って行くことはできません。主イエスは十字架の死が近づいた時、弟子たちに「心を騒がしてはいけません。私はあなたがたの場所を備えに行く。その場所が整ったらあなたがたを迎えにくる」と言いました。主は地上のどんな場所よりも良い、最良の場所を私たちのために用意して下さっているのです。そのことを知り、心穏やかに、この世の恵みへの執着を捨てることが、何よりの死への準備ではないでしょうか。
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梅雨が明けて、すっかり夏になりました。セミの声が心地よいです。夏は昼間に聖書を読むと暑いので、夜に涼みながら読むのが乙かなーなんて思っています。ついビールに手が伸びてしまったりしますけれども。蛍の光で聖書を読む、なんてロマンチックなことができたらいいなぁなんて思いますが、このご時世、しかも東京ではまず難しいでしょうね。ではまたいずれ。主にありて。マロでした( ・ิω・ิ )/