6月7日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈を
している場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約6月7日「現実に直面した時」
創世記43:1~15
私たちは現実の様々な問題に日々、直面します。その問題に対してどのような対応をするかによって大きな違いが生じてきます。この43章では、ヨセフの姿と共に父ヤコブの姿も描かれています。特に今日はこの父ヤコブの姿について見て行きたいと思います。
息子達はエジプトから帰ってくると父ヤコブに「総理大臣」からベニヤミンを連れてくるように命じられたこと、そのことについてシメオンが人質になっていることを告げました。しかしヤコブはこの命令を拒否しました。どうしてもベニヤミンを側に置いておきたかったのです。そこで、息子達がわずかながら持ち帰った食料を細々と食べて日を過ごしました。しかしそれも一週間ほどしか持ちませんでした。
そこでヤコブはまた息子達に「エジプトで食料を買ってきてくれ」と命じました。
息子の一人ユダがこれに答えて言いました。
「お父さん、あの方(ヨセフ)はベニヤミンを連れて来いと言っているのです。連れて行かなかったら食料を手に入れられないばかりか、人質のシメオンが殺されてしまうかも知れません。のんきなことを言っている場合ではないのです。事態は深刻なのです」
ヤコブはこれに答えて言いました。
「どうして自分たち兄弟の他に、末弟のベニヤミンが家にいることを彼(ヨセフ)に教えてしまったのか。お前達が彼にそれを言いさえしなければ私はこんなに苦しまずに済んだのだ。どうしてくれる?」
ユダは答えました。
「それならば、私が全責任を負って、保証人となって必ずベニヤミンもシメオンも無事にここに連れ帰ると約束します。もしそれができなければ私は一生、あなたに対して罪あるものとなります」
ユダはヨセフをエジプトに売り飛ばした「主犯」でした。彼は22年間、自らのその罪に苦しんでいたのでした。ユダのこの言葉を聞いたヤコブは「もしそうなら、そうしなさい」と納得し「総理大臣」への贈り物を持たせて再び息子達を送り出しました。
ここで注目して欲しいことがあります。同じ43章の中ですが、それまで「ヤコブ」と書かれていた彼の名前が、6節から急に「イスラエル」に変わっています。「ヤコブ」は彼が父イサクからもらった名前、「イスラエル」は後から神様にもらった名前です。この名前の変化は「現実を回避する者」つまり古きヤコブが、信仰によって立ち上がる新しいイスラエルとなったことを示しています。末弟のベニヤミンに固執して現実逃避をしていたのが古き「ヤコブ」、ユダの言葉を信じて現実に立ち向かって行くのが新しい「イスラエル」ということです。かつて神は彼に「これからはイスラエルと名乗れ」と命じています。これは「これからは信仰によって現実から逃げずに立ち向かってゆけ」というメッセージなのです。逆に言えば「現実から逃げるこれまでの生き方に戻るな」ということです。年老いて元のヤコブに戻りつつあったヤコブが、ユダの心に触れてイスラエルへと復帰したのです。
私たちクリスチャンもこれと同じです。ヤコブのように新しい名前こそ与えられませんが、古い生き方を捨て、新しい生き方をしなさい、と命じられていることは同じです。そして現実に立ち向かう新しい力はイエス=キリストの恵みの泉から常に与えられているのです。
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更新が遅れがちですみません。ただでさえ、一週間遅れになってしまう説教要約がさらにもう一週間遅れてしまっている状態です。今度の日曜日は礼拝に出られそうなので、来週中には遅れを取り戻そうと思っています。コラムに至っては近頃はまったく書いていませんものね。そろそろ太郎君に怒られそうなのでそちらも善処しようと思います。ではまたいずれ。主にありて。マロでした( ・ิω・ิ )/