説教要約2月19日「三つのうめき」
ローマ8:18~25

聖書の中で、ローマ書8章は、クリスチャンの信仰生活や教会生活、キリスト経験の中でのハイレベルな恵みを教えてくれる書です。そこには、イエス様の生涯を導いた聖霊が、私たちにも「神の子」という身分を与え、導いてくださる、という最高峰の恵みが語られています。

しかし、クリスチャンの生涯には嬉しいことばかりではありません。クリスチャンは試練や苦難も多々、人並み以上に経験するものです。その苦難の中では、声に出すこともできないような状況を経験することもあります。

内村鑑三は「人間には言葉で表現する喜びとか悲しみもあるけれども、人間が発する声で一番深い心の根底を表現するのはうめきだ」と言いました。うめきとは「あー」とか「うー」とか「おー」とかいう、言葉にならない言葉です。パウロも、このうめきの言葉を、人間の発する声の中で最も深い感情の表現として捉え、「三つのうめき」について語ります。

21~22節では「自然界のうめき」を語っています。アダムの罪以来、人間は自然界を破壊し続けてきました。その自然が回復するために自然界自体がうめいているのだと言います。

23節には「神の子のうめき」が言われています。クリスチャンは神の子とされた存在です。また、神の側から見ると、聖霊による最初の実です。なぜならイエス様は、一粒の麦となって十字架で命を捨ててくださったからです。その一粒の麦によって実った実がクリスチャンなのです。パウロは「私たちの体が贖われることを待ち望んでいる」と言っています。体は罪ではありません。しかし、体は罪の道具、罪の武器となるのです。パウロによれば、私たちは罪赦された者でありますが、同時にその肉体はまだ救われていない状態にあります。故に体は救われることを求めてうめいているのです。これが「神の子のうめき」です。

26節には「聖霊のうめき」があります。私たちは、様々な苦しみを経験します。その苦しみは、時に、神に祈ろうとも祈りにならないような声を発するしかできないほどです。そんな時、聖霊は私たちの心を探り、そのうめきをもって、神にとりなしをしてくださるのです。ですから、祈れないことはダメなことではないのです。祈りさえできないほどの私たちのうめきを、代わりに聖霊が言葉として父なる神に届けてくださるのです。ですから、私たちは安心して、御霊と命の法則の中で大胆に歩みましょう。
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昨夜、WBCの「日本-オランダ」を観ていまして、11時頃には終わるだろうし、終わったら寝ようと思っていたのですが、結局延長戦になって試合が終わったのは12時過ぎ。それも白熱の試合で、見終わった後も興奮が覚めやらず、すぐに眠れるわけもなく。。。。というわけで少しだけ寝不足になってしまいました。眠い時もなかなかお祈りって上手にできないものですが、そんな時の「うめき」(・・・というか、これはもはやあくびでしょうか)も神様は聞いて下さるのでしょうか。

それではまたいずれ。主にありて。

※あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。