説教要約2月12日「聖霊に導かれる人生」
ローマ8:12~17

クリスチャンでない方からこんなことを言われることがあります。

「クリスチャンは主体性がないね。なんでもすぐに『祈ってから』とか『神様の御心』だとか言って。自分の意志で動くことはないの?」

大いなる誤解です。クリスチャンに主体性がないだなんて、決してそんなことはありません。神様は人間を自由意志を持った存在として創造なさったのですから。

最近、アンガーマネジメントという言葉をよく耳にします。「怒りの管理」ということです。現代社会は社会構造の中に大きな怒りの塊が溜まっている状態です。そのため、社会病理が蔓延し、人間は怒りにコントロールされてしまっています。怒りに導かれ、自分と他者との関係を破壊してしまっている人が非常に多いということです。

パウロは12節で「ですから兄弟たちよ」と優しく呼びかけた上で、14節で「神の御霊に導かれる人は誰でも神の子どもです」と言います。クリスチャンの歩みは御霊に導かれるものだということです。そして「私たちは肉に従って歩む責任を肉に対して負ってはいません」と言います。この「負ってはいません」は「負債、借金を負ってはいない」という意味です。

パウロはIコリント6:19~20で私たちを「あなたがたは『聖霊の宮』『代価をもって買い取られたもの』だ」と言っています。故に私たちは肉にではなく、イエス様に対して負債、借金を負っている」ということです。

賛美歌332番を書いたのはイギリスの牧師の娘、フランシス・ハヴァカルという人ですが、彼女はドイツ人の牧師の家にいった時、書斎のキリストの肖像画の下にあった「我は、汝のためにこの苦しみをなせり、汝は我がために何をなしたるや」という言葉を読み、感動してこの歌を作ったのだそうです。

イエス様に対する負債は、愛の負債です。私たちのする賛美、献金、奉仕、献身などは皆、十字架の恵みに対する愛の応答です。御霊はそんな私たちを間違いのない人生に導き、御霊自身が証しするのです。
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昨日、あまりに目がごろごろして涙が止まらないので「花粉症かな」と思っていたのですが、家に帰ってコンタクトを外してみたら眼球とレンズの間に太いまつげが一本、挟まっていました。
ふと、「人の目のチリには気付くのに、自分の目の梁には気付かない」という聖書の言を思い出しました。
まつげ一本でこんなに痛くて見えないのに、梁が入っていたらどんなに痛くて見えないことでしょうね。

それではまたいずれ。主にありて。

※あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。