説教要約1月22日「クリスチャンの矛盾」
ローマ7:14~25
今日の箇所は「ローマ書の頂点」と言うべき箇所です。内村鑑三は「クリスチャンの二重人格」とこの箇所を表現しました。
イエス様は「私が来たのは、羊が命を得、またそれを豊かに持つためです(ヨハネ10:10)」と言い、また「あなたがたは私にあって平安を持つためです。あなたがたは世にあっては患難があります(ヨハネ13:33)」とも言われます。
この二つの御言は矛盾するかのようにも見えます。しかしそうではありません。クリスチャンは現実の様々な戦いの中にあっても平安に生きる存在だ、ということです。故に決して矛盾はしないのです。
パウロは「私たちは、律法が霊的なものであることを知っている」と言っています。律法が霊的知識であることを体験的に知っている、ということです。そして律法は「神とはどういう方であるのかを示している」と言います。その律法を通して「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」と言っています。この「罪ある人間」を他の訳では「肉」と訳しています。
「肉」とはアダムに属する古い性質のことであり、原罪を宿している人間のことを指します。そのためパウロは「霊に属する者」と「肉に属する者」を比較し、自分の叫びを語っているのです。パウロは「したいと思うこと(新しい性質)」と「自分が憎むことをしている(古い性質)」と、自分の中に二つの性質が共存していると言っています。これが私たちクリスチャンの姿でもあります。イエス様を信じ、救いに与ることで「新しい人」と「古い人」との葛藤が始まるのです。これがクリスチャンの苦しみです。クリスチャンというのは自ずと矛盾を抱える存在なのです。
これをパウロは「罪が私の内に住み着いている」と表現しています。しかも「私のうちに善が住んでいない」むしろ「自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています」と言っています。このパウロの叫びは私たちの叫びでもあります。
パウロは、最も激しい戦いは、自分の内にある古い性質と新しい性質との戦いだ、と言っています。この戦いの中にあって、葛藤を覚える、パウロが、また私たちクリスチャンが、次の八章で解放され、聖化に至るのです。ここにいよいよローマ書のクライマックスを迎えます。
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東京は、なんだか急に春の日差しとなりました。気温はそれほど高くないですが、日の光の色がもう冬のそれではなく、春です。ちなみに聖書に「春」という言葉は1回しか出てきません。「夏」は26回、「秋」は3回、「冬」は17回出てきますが、「春」は1回だけなんです。穏やかな季節よりも厳しい季節の方が聖書には出てきやすいようです。
それではまたいずれ。主にありて。
※あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。