説教要約1月29日「私たちの内に住む聖霊」
ローマ8:1~6

ローマ書8章はローマ書の恵みの最高峰です。また、聖書全体を通しての頂点とさえ言われる箇所です。それは闇の中に輝く灯台の光でもあります。ドイツの敬虔派の聖書学者シュペンナーは、聖書全巻を指輪に喩えて「ローマ書はその宝石の部分であり、8章はその中でも一番輝いている部分である」と評しました。

パウロは7章で「自分のしていることが分かりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくな悪を行っています。私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか」と心と魂の叫びを打ち明けています。

しかし、パウロのその叫びは7:25で感謝へと転換します。それは、「罪と死の原理」から「いのちの御霊の原理」への転換を示します。ですからパウロはその転換を受けて、この8章を「こういうわけで」という言で始めているのです。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」そして8章は39節で「私たちの主キリストから、イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはありません」という言をもっておわります。パウロは、神の愛、キリスト・イエスの愛がどんなに大きなものであるかを強調しているのです。

キリストに結び合わせられた者は、罪と死の原理から解放され、いのちの御霊の原理の下に生きる者とされた存在です。イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたとき、聖霊が鳩のように下り、イエス様と共なる霊になりました。イエス様はその後、その聖霊に導かれて公生涯を歩まれました。罪と死の原理から解放された者は、イエス様のように、いのちと御霊の原理の下で、聖霊に導かれた生涯を歩むのです。

よく、人間は生きたようにしか死ねない、と言われます。クリスチャンの人生は、どれだけ聖霊の導きと命と御霊の原理の中で生きたかによって価値が決まるということです。
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3月に入ると、教会はにわかに忙しくなります。新年度の計画や予算を立てて、年度末の総会に備えなくてはいけないからです。世の中も忙しいし、教会も忙しい。日曜日なのにむしろ疲れてしまう。なかなか大変な時期です。でも、そんな時こそ神様の恵みや励ましがあるものです。一つ一つ、丁寧にやっていきましょう。

それではまたいずれ。主にありて。

※あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。