説教要約1月15日「律法からの解放」
ローマ7:7~13

パウロは聖化の問題を自分の体験を土台として、今日の箇所で取り扱っています。聖化について、多くの人々は誤解をしています。聖化とは、高い倫理性で生きることによって達成できると思い込んでいる人が昔も今も少なくないのです。また「聖化された人はそんなことは言わない、そんなことはしない」と勝手な枠組みで理解している人も多くあります。そういう人たちはクリスチャンであっても、むしろクリスチャンであればこそ、自分を責め、人を責め、信仰生活の勝利を失ってしまいます。

パウロは「律法は本来よいものであるのに、どうして人や自分を苦しめるのか」と問うています。「律法は私たちに死をもたらす」という言がその問いです。今日の箇所の中には「私」という一人称代名詞が9回もでてきます。それだけ、パウロにとって福音を知るということは、主観的に自分に起きた出来事として重要な体験だったということです。また、パウロの体験はパウロの体験であると同時に、聖書を通して私たち自身の体験となったものでもあります。

ユダヤ人たちはパウロに「律法は罪なのでしょうか」と問いました。それに対してパウロは「絶対にそんなことはありません」と答えました。この言はギリシア語では「メイ・ゲノイト」であり、最も強い否定評伝です。パウロはそれだけ力をこめて否定したということです。律法自身が悪なのでは決してなく、律法に対する人間の関わり方に問題があるために、さも律法が悪いものであるかのように誤解されてしまうのだ、と言っているのです。

「律法によらないでは、罪を知ることはなかった」とパウロは言っています。そして律法の中で罪の中心的な位置にある「貪ってはならない」を例としてとりあげました。パウロは8節で「機会」という言葉を使っています。この言葉は原語では軍隊用語でした。どうしてパウロはこの言葉を選んだのでしょうか。それは、自分の内に律法が入ってくると、心の中に罪を犯させる「軍事基地」ができると言いたかったからです。すなわちこの問題を、霊的な戦闘として捉えていたのです。

パウロ自身、ダマスコで復活の主に打たれ、変えられ、アナニヤのところに連れて行かれました。そこで己が信仰と恵みによって義とされることを確信しました。それにも関わらず、なおも律法に従って「がんばって」しまう自分を知り、その葛藤を「戦闘」と例えたのです。
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雨で気が沈みます。まだ「春の雨」というような温かい雨ではありませんし。冷たいです。寒いです。冷たい雨は寒いです。しとしとぴっちゃん、しとぴっちゃん。こんな冷たい雨の中を歩くと、いつもこの歌が頭の中に流れます。それではまたいずれ。主にありて。

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あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。