1月8日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約1月8日「恵みに生きる」
ローマ7:1~6
今日の箇所はクリスチャンにとって盲点と言うべき箇所です。「クリスチャンは律法が示す倫理的・道徳的基準や枠組みに従って生きるべきだ」と思っているクリスチャンが多いからです。このような人たちは「クリスチャンはこうあらねば」という刷り込みが強い人です。クリスチャンに限らず、世の中の多くの人がクリスチャンに対してそういう思いを抱いています。「クリスチャンは倫理的・道徳的に生きる人たちであり、そうあるべきである」と。
しかし、そんな枠組みにとらわれて生きてしまうと、クリスチャンは自らの弱さを隠して生きざるを得なくなってしまいます。「強い意志と道徳をもって生きる自分」を演じなくてはならなくなるからです。しかし聖書には「強さではなく、弱さをもって生きなさい」と書いてあるのです。
どこの教会でも新しい信徒が洗礼を受けた時には「これからクリスチャンとして頑張りたいと思います」と述べることがよく見られます。これに周囲の人も「これから一緒に頑張りましょう」と応じてしまったりもします。実はこのやりとりがクリスチャンの悲劇の始まりです。こうして、無意識のうちに「がんばる人生」が始まってしまうのです。そしてやがて「クリスチャンはこうあるべき」という律法主義に陥ってしまいます。その結果、「ちゃんとできない自分」に自己嫌悪したり、「ちゃんとできない人」を攻撃したりするようになってしまうのです。しかし、あえて言いますが、そのような「生きづらい生き方」なら止めてしまった方がマシです。聖書には「真理は人を自由にする」と書いてあるのですから。
パウロはそんな律法主義的な生き方をしている人たちに「兄弟たちよ」と呼びかけました。そして、一般的な律法の概念を基礎にしながら、婚姻関係を例に挙げて語りました。当時、結婚している女性は法的には男性の支配の下にあり、自分から離婚を申し出ることはできませんでした。離婚を申し出ることができるのは男性だけだったのです。これがユダヤ社会の結婚観でした。しかし、その中でも女性が自由になれる道はありました。それは、夫が死ねばその律法から解放される、ということでした。
それと同じように私たちも、既に律法の支配から解放され、即ちキリストの「共につけられる十字架」を経験したことにより、律法に支配された体や命は既に死んだので、恵みによって、救い(義認)に与っています。私たちはイエスキリストの救いを受け入れたのですから、もはや律法に縛られる必要はないのです。
これが罪と律法からの解放ということであり、私たちは解放されて、豊かな実を結ぶ生涯を送ることができるのです。
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3月になりました。年度末は教会も世の中と同じように忙しくなります。新年度の予算案を作ったり、総会をしたりしないといけません。ドタバタしますが、そんなドタバタも年に一度の風物詩で少し楽しかったりもします。皆様も、お忙しい時期でしょうが、少しでも楽しくお過ごし下さい。
それではまたいずれ。主にありて。