1月1日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約1月1日「神の同労者」
IIコリント6:1~2

1節に「神とともに働く者として」という言葉があります。この「共に働く」は「同労者」という意味です。私たちにとって「同労者」がいるということは大きな恵みで、大きな励ましです。

よく、新年度を迎え入社式等で「新しい仲間が与えられて」という言葉を聞くことがあります。しかしこの「仲間」という言葉に違和感を覚えるのは私だけでしょうか。その違和感というのは、「仲間」に入れなかった人、「仲間」になり得ない人たちを、この言葉が排除してしまうのではないか、という違和感です。「仲間」にとって、仲間でない人たちは風景になってしまいます。「仲間」とは一種の派閥であり、時として他の人を排除する機能を持ってしまうものだからです。それに対して「同労者」は純粋に、互いに励まし合い、助け合って目的に向かって活動する関係を指す言葉です。「仲間だから一緒に生きる」ではなく「一緒に生きるから同労者」なのです。そこに排除の機能は生じ得ません。

1節の他の訳を参照してみますと、「神の協力者として(新共同訳)」「神と共に働く者として(口語訳)」となっています。パウロは、クリスチャンは神と共に働く「神の同労者」であると言います。これはすごいことです。イエス様と弟子たちの関係を見てみましょう。マルコ16:20に「主は彼らとともに働き」とあります。イエス様は弟子たちをご自分の同労者として扱っていたのです。即ち私たちは使徒たちと同じようにイエス様の弟子として扱われているということです。旧約聖書を見ると、神の同労者として代表的な人物はアブラハムとモーセです。アブラハムは神の同労者として神の秘密を打ち明けられ、モーセは荒野で神と共に働いてた御を導きました。彼らともまた、同じように私たちは同労者として扱われているのです。アブラハムは愛する一人息子のイサクを献げる心の痛みを知りました。故に同じように愛する一人息子のイエスを献げる神の心の痛みに寄り添うことができます。モーセはエジプトの王子という最高の地位から羊飼いという最低の地位にまで下りました。故に神という最高の地位から十字架にまで下りて下さったイエス様の心に寄り添うことができます。

同労者はしかし、口先だけで勤まるものではありません。まず、相手と心が通じ合っていなければ成立しえない関係です。私たちの人生にはいつもいいことばかりがあるわけではありません。辛いこと、嫌なこと、重荷を負うこと。そういったこともあります。同労者は良いことばかりでなく、こういった悪いことも共にしなければなりません。お互いがその気持ちを共感し合い、助け合いながら共に働く関係を同労者と言うわけです。

パウロは数あるパウロ書簡を紐解きますと、ユダヤ人、ギリシア人、お金持ち、貧しい者、男、女、奴隷・・・すべてを含めて「私の同労者」と呼んでいます。またパウロはこの「同労者」と同じ人たちを指すのに「神の僕」という言葉も用いています。「僕(しもべ)」とは原語では「ディアコニア」であり、これには元々「泥をかぶる」という意味があります。神の同労者とは互いの泥を担い合って歩む者である、ということなのです。「互いに」です。神の同労者であるということは、神様が私たちの痛みを自らのものとして共に担って下さるということです。これほど心強いことはありません。

今年一年、喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ、そんな神の同労者、神の僕として歩みたいと願います。
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元日にこの説教を聴いたのは、ついこの前のように感じられるのに、気付けばもう2月も末です。お正月を「新春」と言いますが、近頃は本当に新しい春を少しずつ感じられるような季節になりました。とはいえ、まだ寒い日もたくさんありますから、皆様、風邪など召されませんように。

それではまたいずれ。主にありて。