12月25日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約12月25日「ご自分を献げるために来たイエス」
マタイ2:1~12
今日の箇所は世界中の教会のクリスマス礼拝でよく読まれる箇所です。今日は私たちもこの箇所からクリスマスの恵みを受け取りたいと思います。
「クリスマス」という言葉の「クリス」とはキリストを指し、「マス」は礼拝を指します。即ちクリスマスとは「キリストを礼拝する日」ということです。それだけ、私たちは素晴らしい祝福に与っているということでもあります。
マタイの福音書は、キリストを最初に礼拝したのは東方の博士たちである、と記しています。「東方」とはバビロン(イラクやイランの地域であると考えられています)地方を指し、彼らは星に導かれてベツレヘムのキリストのところまでやってきました。博士たちはヘロデ王に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは東の方でその方の星を見たので拝みに参りました」と尋ねました。これをヘロデは「恐れ惑った」とあります。ヘロデはこの地の王であり、新しく「ユダヤ人の王」が産まれるということは、自分の地位が脅かされるということであったからです。それでヘロデは祭司長や学者たちを集め、キリストが産まれた場所を突き止めさせました。自分の脅威となる者を赤子のうちに殺そうと考えたからです。しかし、ヘロデは馬小屋の飼い葉桶で寝ておられるイエス様に辿り着くことはできませんでした。
一方でそれをヘロデに尋ねた博士たちは星に導かれてイエス様の所に辿り着きました。そして彼らにとって一番大切で貴重なものであった「黄金・乳香・没薬」を献げ、拝みました。ここでの「拝む」という言葉は原語では「大地に身を投げ出し、ひれ伏して拝む」という意味です。博士たちは全身全霊をもって、激しく主を礼拝したのです。
この博士たちの行為こそ、「神に対する応答」です。父なる神はその何より大切な一人子を馬小屋の飼い葉桶に遣わしました。これは神ご自身が大地に身を投げ出した「献身」なのです。博士たちは神様のこの行為に対して応答したのです。これが世界で最初の礼拝であったことは、私たちが日々、礼拝を献げる上で、覚えておかなくてはならないことでしょう。
また、博士たちが星に導かれなくてはイエス様の所に辿り着けなかった、ということも大切なことです。ヘロデが強大な権力によって、大規模な捜索をしても辿り着くことができなかったイエス様の元に、星は、即ち神は博士たちを導きました。イエス様に会うことができる、イエス様を礼拝することができる、それだけで大きな恵みを神様から与えられているということです。キリストを礼拝するということはそれほど大きな祝福なのです。世の権力をどれだけ集めても得ることのできないほどの祝福なのです。
ヘロデはキリストを見つけることができなかったので、国中の二歳以下の男の子を皆殺しにしました。目を覆うような大虐殺が繰り広げられたのです。しかしそれはヘロデ一人の問題ではありません。私たち人間すべてに関わる罪の問題です。人間の心の中にある恐れは、自分と立場や意見の異なる者や、自分を脅かす者の存在を廃除しようとするのです。私たちの心はこのように恐ろしいことをしてしまう罪に犯されています。ヘロデだけではないのです。私たちは大虐殺こそしないかも知れませんが、立場の違う人や自分を脅かす人を排除しようとすることは往々にしてあります。しかし、そんな「罪の大地」に神様は身を投げ出して下さいました。世の光、罪を赦す救い主としてイエス様を遣わして下さいました。
私たちはクリスマスの今日この日、イエス様の元に導かれ、その御前に集い、今まさに礼拝を捧げています。これがどれほど大きな恵みか、しっかりと味わいながらクリスマスを過ごしたいと思います。
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2月も末ですが、ようやくクリスマス礼拝の要約です。遅れていてすみません。上馬教会WEB部隊、4月から増員を検討中です。
それではまたいずれ。主にありて。