11月21日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約11月21日「キリストにつく洗礼」
ローマ6:1~4

今日の箇所でパウロは洗礼について語っています。聖書の中でも大変に重要な箇所です。私たちは洗礼についてどのように理解しているでしょうか。洗礼に関しては、浸礼、滴礼、無洗礼などの立場がありますがパウロはそのような立場について語っているわけではありません。律法は人を十字架、主イエスの救いに導くための道標であって、それ自体によって人が救われるわけではないと、パウロはこれまで語りました。また「律法が入ってきたのは違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには恵みも満ちあふれました(ローマ5:20)とも語りました。

しかしユダヤ人たちはそれに対して「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか」と開き直った態度をとりました。それに対してパウロは「絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるのでしょう」と反論しました。6節に「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは・・・」とあります。パウロは、キリストに結びついた者は、もはやそれまでの古き人格が十字架につけられて死んでいるので、罪の中に留まることはないと言っているのです。

パウロはキリストに結びついた者の新しい生命の質とは何かを語り、そのために「洗礼を見よ」と言います。それは「新しい歩み」をするためです。パウロは3~4節で洗礼をキリストとともに「死に」「葬られ」、「復活」に「与る」ことであると言っています。この「与る」とは英語にすると「into」です。即ち洗礼とは「キリストの中に入って行く」ことです。マタイ28:19に「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」とあります。この「よって」が「into」であり、よってこの聖句は「父と子と聖霊の三位一体の神の中へ、あなたがたを迎え入れます」という意味になります。
洗礼を受けた者、即ちクリスチャンとは、洗礼を通してイエスキリストに結び合わされた者、イエスキリストの中に迎え入れられた者、ということになります。このことがクリスチャンの救いの客観的根拠となるわけです。
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洗礼と言うと、野球の新人投手がホームランを打たれてしまった時とか、新入社員が鬼上司に大目玉を食ったときとか、あまり良くない目にあったときに「◯◯の洗礼を受けた」なんて、世の中ではよく使われますけど、クリスチャンとしてはちょっと心外な気持ちになります。洗礼は人生で何よりも祝福された出来事ですからね。新人野手がホームランを打った時とか、新入社員が初任給をもらった時なんかに、「洗礼」という言葉を使って欲しいなー、と思います。
それではまたいずれ。主にありて。