11月27日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約11月27日「恵みを知る者」
ローマ6:5~11

「恵みを知る者」とは誰でしょう。それは、罪を赦されて神の子とされた者達のこと、すなわちクリスチャンのことです。パウロは今日、クリスチャンというのはどういう存在かを語ります。

5節に「もし私たちがキリストに継ぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」とあります。パウロはクリスチャンとは「キリストに継ぎ合わされた者」であると言うのです。この「継ぎ合わされて」は新共同訳では「結びついて」「ひとしく」と訳されています。原語では「一緒に産まれてくる」「一緒に育つ」という意味の言葉です。この言葉はルカ8:7「また、別のタネは茨の真ん中に落ちた。ところが茨も一緒に生え出て、それを押しふさいでしまった」でも見ることができます。この「茨も一緒に生え出て」は新共同訳では「茨も一緒に伸びて」です。また、ヨハネ15:5「わたしはぶどうの木であなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」でも同じ言葉がみられます。
ぶどうの木に接ぎ木された枝が幹から栄養を吸収して実を結ぶように、クリスチャンはイエス様に結ばれて、即ち接ぎ木されて、イエス様から栄養を吸収して実を結ぶものである、ということです。

このことは「成長しないクリスチャンは存在しない」ということでもあります。私たちクリスチャンは、イエス様と繋がっている限り、どこにいても何をしていても成長して同じ実を結ぶのです。「努力しなければ成長しない」という世の常識を超越するのです。なぜなら「私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられた」からです。私たちの中にあったアダムの性質、「罪」はもはや無力となり、新たにイエスの性質が私たちの生命となるからです。それまで繋がっていたアダムの木から、切り離され、新たにイエスの木に接ぎ木されたのですから、もはやアダムの木からの養分は与えられず、イエスの木からの養分で枝は育ち、実を結ぶのです。ガラテヤ2:20に「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが、私のうちに生きておられるのです」とある、まさにその通りのことです。パウロはこの恵みを「思いなさい」即ち「認めなさい」と語っています。この恵みを常に忘れず、認める者でありたいと願います。神様からの養分は、無償で、無限に、自動的に、与えられているのです、いつも。
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「努力なしに成長なんてするわけがない」と以前は思っていたのですが。クリスチャンになって早14年、努力なしに「ただクリスチャンでいるだけで与えられる成長」って本当にあるものです。それも、思いもよらぬことが成長したりするので自分でも驚くのです。「はて僕は、こんな能力があったものかしら」と。これぞ「神様からの養分」なのでしょうね。

それではまたいずれ。主にありて。