11月13日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約11月13日「満ちあふれる恵み」
ローマ5:18~21
ある人がこう語っています。「神様の目には二人の人間が見える。それはアダムとイエスである。そして、この二人の腰の周りに他のすべての人間がぶら下がっているのだ」
秋になると「鈴なり」という言葉を耳にしますが、私たちは皆、アダムかイエス様に「鈴なり」になっているということです。
しかし、ユダヤ人にとってはこの二人の他に、もう一人忘れることのできない大切な人物がいます。それはモーセです。ヨハネ5:45に「わたしが、父の前にあなががたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです」とあります。また、ヨハネ9:28には「彼らは彼をののしって言った。『おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ』」とあります。ユダヤ人たちにとってモーセは誇りであり、希望でありました。また、自分たちをモーセの弟子であると自覚していました。故に彼らは「アダムとイエス」というパウロに「ではモーセはどうなのだ」と反論したのでした。
そこでパウロはモーセの立場を解き明かすと共に、律法の問題をユダヤ人に対してはっきりさせようとします。20節でパウロは「律法が入ってきた」と言っています。ユダヤ人に律法を与えたのはモーセですからここでの「律法」という言葉は「モーセ」と同義です。口語訳や新共同訳では「律法が入り込んできた」となっていますが、この言葉は原語を辿りますと「傍らに」「中へ」「やってくる」という三つの語の結合語です。12節にも「ちょうど一人の人間によって罪が世界に入り」とあります。12節の「一人の人間」とはアダムを指しますが、20節の「律法」は先ほど述べたようにモーセを指します。つまり20節は「モーセが傍らに入り込んできた」という意味になります。パウロはモーセをアダムとイエスの間に入ってきた脇役である、と言ったわけです。
どうしてパウロはこのような言い方をしたのでしょうか。パウロはガラテヤ3:24で「律法とは教育係である」と言っています。律法は人をキリストに導くための乳母のような役回りをする、ということです。アダム的人間とイエス的人間、あくまで人間にはこの二種類しかパウロのこの文脈ではありません。モーセ的人間、という軸は存在せず、モーセはアダム的人間をイエス的人間に変えるための媒体の一つである、ということです。ユダヤ人はモーセを理想的人間とし、モーセを自らの人生の最高到達点と捉えていましたが、パウロはその視点を否定し、モーセは橋渡し役でしかなく、到達点として見据えるべきはイエスただ一人だと教えたのです。
では、モーセは、つまり律法は価値の劣るものなのでしょうか。そうではありません。律法は人に、自らの罪を教えてくれます。律法なしに人は己の罪に気付くことができないのです。律法より、人は罪が罪として分かるようになります。罪が分かるからこそ、その罪が赦される恵みを恵みとして分かるようになるのです。借金が多ければ多いほど、それを帳消しにされた時の恩は大きくなります。己の罪を知れば知るほど、それを赦してくださるイエスの恵みは大きなものとなるのです。故に律法、即ちモーセも、決して軽んじるべきものではなく、イエスの恵みの大きさを知らしめてくれるものとして大いに尊重されるべきものなのです。律法があってこそ、モーセがあってこそ、イエスの恵みはいよいよ豊かに私たちの心に満ちあふれるものとなるのです。
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本当に寒い日が続いていますけれど、みなさま風邪など召されていませんか。今年の風邪は喉が特にやられるみたいです。僕も先月、かなりやられて一時は声がまったく出なくなりました。バプテスマのヨハネが産まれる前のザカリヤの気持ちが少しだけ分かりました。みなさま気をつけて下さいね。本当に寒いですから。
それではまたいずれ。主にありて。