11月6日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約11月6日「人生のモデル」
ローマ5:18~21

現代社会は人生のモデルがない時代だと言われます。それは即ち、人が生きる上での生き方のモデルがないということ、多くの人がどうやって生きればいいのか分からない時代だということです。そんな時代に、身近に生き方のモデルを持っている人は幸いです。

人は、生き方のモデルとなる人がいると、自ずとその人に似てくるものです。牧師も同様で、モデルとなる、お手本となるような先輩牧師に出会うと、自ずと説教や牧会のスタイルがそのお手本に似てきます。

パウロは、人間には二つの「人生のモデル」があると言います。一つは主イエスであり、もう一つはアダムです。「こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、命を与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです」とパウロは言っています。ここで使われている「同様に」という言は口語訳や新共同訳では「ように」と訳されています。この「同様に」「ように」というのは「モデル」を示しています。

ある聖書学者は、ここに二つのピラミッドがあり、その一つの頂点にはアダムが、もう一つの頂点にはキリストがいる、と説明しています。このことを私たちになじみのある富士山を用いて説明してみます。ここに二つの富士山があります。一つの頂上にはアダムが、もう一つにはキリストがいます。富士山には大きな裾野があり、そこには多くの人が暮らしています。。アダムの富士山の裾野には罪と死がすべての人に広がっています。一方、キリストの富士山の裾野には赦しと恵みとがすべての人に広がっています。

12節には、アダムによってすべての人に罪と死が入った、とあります。19節には「罪人とされた」と、より断定的な表現があります。人は生まれながらに確実にこの裾野にいるからであり、そのままでは確実にこの裾野にいるまま生涯を終えるからです。これがアダムの富士山の裾野です。

一方、キリストの富士山の裾野は「すべての人は義と認められ、いのちを与えられるのです」また「義人とされる」と表現されています。アダムの裾野のような断定的な表現はありません。なぜなら主イエスを頂点とするこの富士山の裾野は主を信じる者にのみ与えられる、恵みと命の裾野だからです。強制的に不可避なものとして与えられた罪の裾野と違い、恵みとして与えられた裾野だからです。その裾野に入った者は恵みの支配の中に生きるのです。

人は生まれながらに、いわばアダムを「人生のモデル」として歩んでいるのです。故に自ずと生き方もアダムのそれに似てきます。一方でキリストを「人生のモデル」として歩むことを選んだ者は、少しずつでも自ずと生き方が主イエスのそれに似てくるのです。
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今日から新しいブログでの更新です。このブログの準備のために随分と説教要約の更新が遅れてしまいましたが、これから盛り返してゆこうと思います。
それではまたいずれ。主にありて。