10月30日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約10月30日「確かな恵み」
ローマ5:15~17

あるコラムニストが「人生に答えはない。だから答えのない人生と向き合って納得のいく人生を歩もう」という記事を書いていました。私はこの記事を読みながら思いました。答えのない人生を生きるとはなんと空しいことか、と。皆さんはどう感じますか?

ソロモンは「人は心に自分の道を思いめぐらす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である(箴言16:9)」と言っています。ソロモンは人間の人生には間違いのない確かな「答え」があると言っているのです。

パ ウロは今日の箇所でその「間違いのない確かなもの」とは何か、ということを語っています。フランスの聖書学者ゴーデーはこの箇所について「ローマ書5章 15~17の3節は、新約聖書の中で最も難しいところの一つである」と言っています。そんな箇所で、パウロは第一のアダムと、第二のアダム即ちイエスキリ ストを比較し、両者が根本的に異なるということを指摘しています。「ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人 が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです」と。

ここに「それにもまして」とあることに注目しましょう。この言を新共同訳聖書では「なおさら」と訳しています。ジェルサレム・バイブルは「まして、さらに確実だ。一層、確実だ」と訳しています。私はこのジェルサレム・バイブルの訳がとても良いと思います。

こ の箇所のパウロの言は、二つのコップに喩えることができます。一つがイエスキリストというコップであり、このコップには愛、赦し、恵みが一杯に満ちていま す。パウロはこの様子を「満ちあふれる」と表現しています。父なる神の賜物(プレゼント)である主イエスの恵みがコップから溢れ出て全人類に及んでいる、 ということです。一方、もう一つのコップは言うまでもなくアダムのコップです。こちらのコップには罪が入っています。人類に罪が入り、それが溢れ流れた、 ということです。

私たちは前者の、イエスキリストのコップから溢れ出た恵みと永遠の命の支配に生きている者です。この事実に「間違いのな い確かな」恵みがあり、人生の「答え」があるのです。アダムのコップから溢れ出たものに支配されていれば人生に「答え」はないのかも知れません。しかし私 たちキリストのコップから溢れ出たものに支配されている者の人生には確実で豊かな「答え」が与えられているのです。この「答え」ほどに確かな恵みは他にな いのです。
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昔、アメリカに住んでいて、そのまま移住し てしまおうかとも思ったのですが、お風呂が嫌で帰国しました。ユニットバスだとお湯を溢れさせながらプハぁーーとゆったり浸かることができないのですも の。その意味でも「溢れる」って恵みですよね。皆様、お風呂上がりはちゃんと暖かくして、風邪をひかないようにしてくださいね。

それではまたいずれ。主にありて。