12月27日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈を
している場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約12月27日「感謝」
Iテサロニケ5:18
神 学者カール=バルトは「神は人間にただ感謝のみを課せられる」と言います。愛鳥家が鳥にエサをやります。しかし人が近づけば鳥は逃げ去ってしまいます。動 物には感謝の心がありません。多くの人が、福音を聞かされるとこの鳥たちのように逃げ去ってしまいます。感謝の心を持っている人間ならば、むしろ福音を聞 かされれば神に寄っていくでしょう。信仰の礎は感謝の心にあります。神は人間を動物と異なる者として創造されましたが、その相違点のうちの一つがこの感謝 の心です。もし感謝の心を持たず、福音によって神から逃げ去るなら、それは動物と同じです。残念ながら多くの人は自分の世界だけに生きていて、神に目を向 けることをしません。バルトの言葉は、人間は神に人間であることを求めている、という意味にも取れます。
「私がこの取税人のようでないこ とを感謝します」これはパリサイ人たちの祈りです。これは真の感謝の祈りではありません。それは感謝の祈りではなく、むしろ己を誇る祈りです。では真の感 謝とはどのようなものでしょう。ルカ書の17章に病を患った10人の人が主に癒された記録があります。その10人のうち、1人だけが主に近づき、ひれ伏し て感謝を捧げました。真の感謝は行いを伴い、具体的な形として現れます。それは例えば献金であり、また例えば奉仕であります。癒された10人のうち1人は 大きな声を挙げて主を宣べ伝えました。これも一つの具体的な感謝の表れです。しかし癒された他の9人は言葉だけの感謝を述べて、二度と主にあうことはあり ませんでした。
真の感謝とは心理的次元のものではなく、存在論的次元のものです。それには何らかの犠牲や献身をともないます。裸で生ま れ、裸で死ぬ己を認識することが感謝の礎であり、故にその認識は己の存在を主に捧げることにつながります。己を己の人生の主体としたまま、己の存在を自分 のものとしたまま、口先だけでいくら感謝感謝とくり返した所で、それは主の人に求める感謝ではありません。
人は感謝どころか、十字架の主を罵りました。現代でも多くの人が、福音に感謝するどころか、それを否定し、信じる者を罵ります。それなのに自分は「人に感謝されたい」と思っています。「どうして自分は人に感謝されないのか」なんて不満を述べたりします。
主の求める感謝は世の感謝とは次元がまったく異なるのです。己の存在を主に捧げ、主権を委ねるような感謝を主は求めています。そしてその献身の具体的な形とは、奉仕であり、献金であり、宣教であり、そして何より礼拝です。
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年末年始で、しばらく説教要約の更新をお休みしていました。遅ればせながらようやく昨年の最後の説教の要約の更新です。皆様、よいお正月を迎えられましたか。2016年が神に祝福された年となりますように。今年も一年よろしくお願い致します。
それではまたいずれ。主にありて。