12月20日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約12月20日「クリスマスの問い」
マタイ2:1~12

世 ではクリスマスのイベントが盛大に執り行われています。多くの人々がクリスマスに問うこと。それは「サンタは本当にいるのだろうか」「プレゼントはなんだ ろうか」「何を着ようか、何を食べようか、誰と過ごそうか」・・・と、そういったことばかりです。クリスマスの主役であるはずの主イエスについてクリスマ スに思いを馳せ、問いを起こすのはごくごく少数派です。クリスマスを楽しむ人は多いですが、クリスマスを喜ぶ人はわずかです。多くの人々の心の中には主の 居場所がないのです。クリスマスでさえも。主は人々のところに降りてきたのに、人々は主を受け入れませんでした。どうして主は馬小屋で産まれなくてはなら なかったか。それは他に受け入れる場所がなかったからです。

人は誰しも心に悲しみを抱えています。主はその悲しみの代表です。即ち、人の 心に悲しみの居場所がないのです。「楽しく、笑顔で、ポジティブに」と、世の人々は悲しみを自分の心から追い出そうとします。しかしそうして無視され、行 き場を失った悲しみが世の中を歪ませてしまいます。

「ユダヤ人の王として産まれた方はどこにおられますか」新約聖書はこの問いから始まり ます。これは人が神を探し求める問いです。一方、旧約聖書の冒頭、創世記では神が人、即ちアダムを探して「あなたはどこにいるのか」と問うています。神が 人を探す問いと、人が神を探す問い、この二つの問いの交わる所が馬小屋の飼葉桶です。神はいつでも私たちに「あなたはどこにいるのか」と問うています。私 たちは「ユダヤ人の王として産まれた方はどこにおられますか」と問うているでしょうか。自分の悲しみを受け止め、救って下さる救い主を求めているでしょう か。

三博士は「救い主はどこか」という問いながら、その手には救い主に捧げる贈り物を携えていました。彼らの主への贈り物である 黄金、乳香、没薬はそれぞれ三博士の非常に大切な商売道具でした。彼らは自分の生きるのに必要な大切なもの、自分のアイデンティティたるものを主に捧げた のでした。そして、来たときとは別の道を通って帰りました。これは、主に出会った者はそれまでとは違う道を歩む、ということの象徴です。

三 博士が主の所に向かう途上に、足萎えのアマールという少年がいました。アマールは三博士に、自分の杖を主に捧げてくれるように頼みました。アマールは杖な しには歩けませんでした。それなしに生活することはできませんでした。杖を捧げるということは自分の行動すべてを捧げることと同義でした。それなのに、ア マールはそれを捧げました。すると、その時からアマールは杖なしに歩けるようになりました。アマールもまた、主に自らを捧げることで、それまでとは別の道 を歩むことになったのです。私たちにとって、アマールの杖はなんでしょう。最も価値のあるもの、最も欠かせないもの、それが自分のアイデンティティである ところのもの、それを主に捧げる時、それまでと違う道をそこから私たちは歩むことになるのです。

三博士もアマールも、自分を捧げるために 主を探しました。何かをいただくためにではありません。捧げるために「主はどこですか」と問うたのです。私たちはクリスマスに何を問うでしょうか。何をい ただけるかでしょうか。何を捧げられるかでしょうか。サンタばかり見ていたのでは絶対に見えて来ない豊かで深い世界が、主を求めるクリスマスにはあるので す。
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今年最後の礼拝が先ほど終わりました。今年一年、 お疲れさまでした。来週はもう来年なのかと思うと少し不思議な感じがしますね。今日はクリスマスの片付けをしながら、教会員同士クリスマスにいただいた祝 福をシェアしあいました。楽しむクリスマスと喜ぶクリスマスは違います。クリスマスは終わりましたが、これから新しい一年がやってきます。楽しい一年も良 いですが、それよりも喜ぶ一年を迎えたい、と思います。

それでは皆様よいお年を。主にありて。