説教要約5月7日「私の近くにある神の言」
ローマ10:5~13

聖書は神の言です。神の言が語られると出来事が起こります。例えば創世記で「光りあれ」という神の言が語られると、「光が生じる」という現象が起こりました。神の言にはそういう働きがあります。

私たちは礼拝で神の言を聴きます。礼拝の説教は教会の言、神の言であって、牧師や説教者の言葉ではありません。説教者は説教で決して自分の主張を語ってはいけません。もし説教で説教者の主張が語られるならそれはもはや説教ではないからです。そして礼拝の説教が説教でなくなってしまったら、それは礼拝が礼拝でなくなるということであり、それは教会が教会でなくなるということなのです。ですから説教者は徹底的に己を神の陰に隠し、神の言を語らなければなりません。

というわけで、説教もまた神の言ですから、それが語られれば、そこに出来事が起こります。つまり、何らかの変化が私たちの内に起こる、ということです。パウロは「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは彼らの救われることです」と語っていますが、この「救われる」というのも、神の言の下に起こる変化の一つですし、私たち説教者が何よりも強く望む変化です。「救いの恵みに与って欲しい」と私たちは常に強く願いつつ、神の言を語っています。この願いは説教者の願いであるだけでなく、教会の願いでもあります。

イスラエルの民は、モーセを通して律法を授かり、そのことによって「自分たちは特別に選ばれた民だ」と思い込みました。そして、その律法を守ることで救いに到達することができると信じました。この信念は「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ(申命8:17)」との言葉に集約されています。ところがこの律法への盲信は、反対に彼らを救いから最も遠い所に置いてしまいました。むしろ彼らが「救いから最も遠い人々」と思っていた人達が、救われました。救いへの距離がすっかり逆転してしまったのです。

モーセは申命記の10章で「心の中で『私が正しいから』だと」うぬぼれてはいけない、とイスラエルの民を戒めていました。自分たちがどれほど素晴らしい贈り物をいただいたからと言って、優れているのはそれを贈って下さった神様であり、自分たちではない、とモーセは重々彼らを叱っていたのです。しかし彼らは分かりませんでした。律法の本質が愛であること、救いは内側からでなく外側から来ることに気付きませんでした。救いとは自分の力や努力で到達すべきものと思い込んでいました。

私たちもイスラエル人と同じように、つい自分の力や自分の努力で、人生を切り開いたり、救いを得たりしようとしてしまいます。しかしそれは天に座しておられるキリストを地に引き下ろすこと、また黄泉にまで下ってくださったキリストを地に引き上げることであり、人間の傲慢、神に対する不遜です。

私たちは自分の力や自分の知恵ではなく、神の言の起こす変化によって救われるのです。パウロは「大切なことは心に信じ、口に告白することだ」と言いましたが、神の言によって心に生じた「信じる」という目に見えない変化が、「口に告白する」という現実的・物理的な現象となって初めてそこに信仰が明らかにされ、救いが公のものとなるのです。だからこそ、「主を告白する者は誰でも救われる」のです。

私たちを救いに導く、変化を起こす、出来事を生ぜしめる神の言は、こうして礼拝に、または聖書に、こんなにも私たちの近くにあるのです。私たちはその言をシャワーのように豊かに浴びて、変化してゆくのです。

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今日の箇所には何度も「神の言」という語が出てきましたが、これは「かみのことば」と読みます。「言葉」ではなく「言」と書くのには意味があります。「神の言」とはロゴスのことであり、ロゴスとは「根本原理」「道理」のような意味です。「言葉」はそのロゴスの「結果的に生じる枝葉末節」を示す語です。「神の言」は「枝葉末節」ではなく、ロゴスそのもの、ロゴスの幹であるので「葉」を用いず「言」と書くのです。

それではまたいずれ。主にありて。

※あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。