説教要約5月14日「うるわしい喜び」
ローマ10:14~21

パウロは15節で次のように述べています。
「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう』」

この「なんとりっぱでしょう」を新共同訳では「なんとうつくしいことか」と訳しています。同じ「良いことの知らせを伝える人々の足」について、旧約聖書の預言者イザヤは「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ(イザヤ52:7)」と述べています。

このイザヤ52章では、イスラエルの民は神に背を向けて歩み始めていました。その姿を見たイザヤは「あなたがたはやがてバビロンに国を滅ぼされ、捕囚の民となって連れて行かれるぞ」と警告の預言をしました。事実、その100年後にその預言は成就し、イスラエルは新バビロニア王国に滅ぼされ、イスラエルのエリート層は捕囚の民として、その主都バビロンに連れて行かれました。有名な「バビロン捕囚」です。

しかし、神は彼らをそのままにはしておきませんでした。ある一人の器によって、その捕囚から解放される「良き知らせ」を彼らに告げさせました。イザヤはその器を「良い知らせを伝える者」と単数系で表現しましたが、パウロは「良い知らせを伝える人々」と複数形で表現しています。

どうしてパウロは複数形を用いたのでしょう。それは「良き知らせ」を告げる者が牧師や伝道者だけではなく、イエスキリストを信ずるすべての人々である、ということを強調するためでした。

イエスキリストがユダヤ人の一人としてお生まれになったのに、そのユダヤ人たち、信仰的に言えば神の民イスラエルと呼ばれる人々、がキリストの語る言の美しさ、キリストの存在自体の美しさをまったく理解しなかった、そのことをパウロは嘆き、苦しんでいたのでした。しかしパウロはそんなイスラエルの民にもやがて解放の「良き知らせ」がもたらされることを信じていました。

私たちも同じです。私たちも時に、イエスキリストや、聖書の言葉を理解できない時があります。イスラエルの民が捕囚の民となって苦しみや悲しみを味わったように、私たちの人生にも苦しみや悲しみの時があります。しかし、イスラエルに解放の「良き知らせ」が来たのと同じように、私たちにも解放の「良き知らせ」が訪れます。そして私たちはその知らせを受ける者であると同時に、それを宣べ伝える者でもあるのです。その宣べ伝える私たちの姿を、イザヤやパウロは「なんとうつくしいことか」と褒め、励ましを与えて下さっているのです。私たちクリスチャンは「良い知らせ」を喜び、そして伝える者でありたいものです。
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今日の説教に出てきた「バビロン捕囚」とは、紀元前586年に新バビロニア王国のネブカドネザルによりエルサレムが陥落し、そこに暮らしていたイスラエル人をバビロンに強制移住させた事件です。紀元前537年にアケメネス朝ペルシアのキュロス2世によって新バビロニアが滅ぼされるまで、約50年間、その捕囚は続きましたが、この期間にイスラエル人たちは自らの信仰を改めて見直し、それによって現在のユダヤ教が確立したと言われています。モーセの「出エジプト」に次ぐ、旧約聖書中の大きなエピソードと言えます。

それではまたいずれ。主にありて。

※あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。