説教要約4月30日「深い知識と素直さ」
ローマ9:30~10:4

私たちは聖書についての知識をどれだけ持っているでしょうか。クリスチャンでも意外と分かっているようで分かっていなかったりする点が多いものですが、勘違いしてはいけないのは「聖書の知識が多い = 信仰が深い」というわけでは決してないということです。確かに、豊かな信仰にはある程度の聖書知識は必須です。しかしだからと言って、聖書知識と信仰とは必ずしも比例するわけではないのです。

「(イスラエルの民は)義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした」「義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。即ち、信仰による義です」パウロはこの2つのセンテンスを今日、語っています。義を求めたイスラエル人が義を得られず、義を求めなかった異邦人が義を得た、と、少し不条理に思えるようなことを言っています。

しかし、これはイエス・キリストの救いについて言えば、決して不条理ではないのです。ここでのイスラエル人はいわば、自らの聖書知識で救われようとした人々であり、一方の異邦人は主の恵みにすがって救われた人々だからです。つまりイスラエル人は「聖書の知識が多い = 信仰が深い = 救われるべき」と勘違いしてしまっていたのです。

イスラエル人は神の救いの恵みを得ることに非常に熱心でした。それはパウロも「彼らが熱心であることをあかしします(10:2)」と言っている通りです。しかし彼らは「義なる律法を追い求め」ました。イスラエルの民は神様から「あなたは正しい」と言ってもらうことに、必死だったのです。彼らは神の期待に応えることで、義なる者たる宣言を受けることができる、と信じていました。そしてその神の期待とは自ら聖書を学び、自らそれを実践することだ、と考えていたのです。熱心さが的外れだったというわけです。

私たちもこのイスラエルの民と同じです。私たちは誰かに受容され、愛されるために、相手の期待に添うように振る舞ったりします。そして、それでも受容や愛が得られないと「つまづいた」と文句を言い、心に怒りを溜めます。心に怒りが溜まれば与えられた受容や愛にも気付きにくくなります。悪循環が生じてしまうのです。

そもそも受容や愛は何かの対価として与えられるものではありません。喩えるならお金で買えないものに大金を積んで無理矢理買おうとしているようなものです。イスラエルの民は「こんなにも律法を学んでいる(=対価を払っている)私たちが救われずに、学んでいない(=対価を払っていない)彼らが救われるなんて!」と神様に対して怒りを溜め、かえって自分たちを律法によって救いから遠ざけてしまっていたのです。

パウロは、もし本当に深い知識があるならば、人はその知識によってではなく信仰によって救いを求めるものだと語っています。

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今日の要約で「つまずき」という言葉が出てきましたが、ノンクリスチャンの方には分かりにくい言葉ですよね。クリスチャンはよく使うのですが。いわゆる「教会用語」の一つです。これは原語のギリシア語では「スカンダロス」で、私たちになじみのある「スキャンダル」の語源だそうです。「憤る」という意味があるそうです。たしかにスキャンダルって、時にそれを知る人に怒りや嫉妬を覚えさせますよね。「人につまずく」とは「人に怒り、嫉妬する」、「神につまずく」とは「神に怒り、嫉妬する」。そう置き換えると少し、分かりやすくなるかも知れません。


それではまたいずれ。主にありて。

※あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。