説教要約4月23日「あわれみの器」
ローマ9:24~29

イースターも終りましたから、今週からまたいつも通りのローマ書の講解説教に戻ります。

「あの人は器が小さい」とか「あの人は器が大きい」とか、世の中で聞くことがあります。「器の小さい」人は自分の中の枠でしか人を受容できず、「器の大きい人」は自分の枠に捕われずに他人を受容することができます。また「器の小さい」人は自分の弱さや欠点も受容できない傾向があります。
聖書を見ると、人はよく器に喩えられます。木、土、制動、金、銀、など様々な素材の器に人は喩えられています。時には「不義の器」なんていう表現もあります。パウロもまた私たち人間を器に喩えて「私たちは土の器に神の恵みを入れている」と表現しています。「大きな家には金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用いられます(IIテモテ2:20)」

パウロはローマ書9章で、二種類の器について語っています。それは「怒りの器」と「あわれみの器」です。「怒りの器」とは自分自身の自由意志で神に背を向けて生きている人々のことです。「人間」はギリシア語で「アンスローポス」ですが、この語源は「上をむく」という意味です。そもそも人間は天を見上げて神を求め、神と共に生きる存在であるということです。しかし、少なくない数の人間は、その本質を失って神に背を向けて自分勝手に歩みだしました。その意味で、神様から見ればすべての人間は大なり小なり皆、「怒りの器」であると言えます。

それに対して「あわれみの器」について、パウロは「神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召して下さったのです」と言っています。ユダヤ教の視点で見ると、ユダヤ人でない者、即ち異邦人は神の救いの恵みから外れた人達です。故に無価値な存在です。しかし、その無価値なはずの異邦人が神に選ばれて救いの恵みに与っている。このことが「あわれみの器」ということです。杯に水が注がれるように、この器には神のあわれみが豊かに注がれ、貯められているのです。

「選民」としての地位にあぐらをかき、異邦人を無条件に「怒りの器」、救いから外れた無価値な者と蔑んでいたユダヤ人たちをパウロは弾劾し、そんなユダヤ人こそが「怒りの器」であると指摘しました。パウロはこのときホセア1:10を引用しました。

イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる。彼らは、「あなたがたは私の民ではない」と言われた所で「あなたがたは生ける神の子らだ」と言われるようになる。

ここにある「所」とは「絶望と悲しみ」が「希望」に変わった場所です。「怒りの器」と「あわれみの器」が転換する一点です。神様は人生の悲しみと絶望の場所を、希望の回復の場所として下さる方なのです。自らにたまった怒りと絶望を捨て、そこにあわれみを注ぎ込んでいただけば、同じ器が「怒りの器」から「あわれみの器」に変えられるのです。

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仕事場ちかくの中華屋さんで、冷やし中華が始まっていました。嬉しい気持ちになりましたが、今日は少し気分が違ったので鶏ラーメンを食べました。季節の変わり目、特に冬から春にかけては、神様の創造の御業を感じます。冷やし中華を創造したのは、たぶん神様じゃなくてどこかの料理人の方だと思いますが。

それではまたいずれ。主にありて。

※あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。