説教要約4月16日「本当にイエスは蘇った」
ルカ24:13~35

イースター礼拝は、イエス様が十字架で死に、墓に葬られた後に、死の殻を打ち破って蘇ってくださったことを覚えて執り行われる礼拝です。

復活ということについては、今日まで歴史的に多くの人々が絶えず色々な解釈や理解をしてきました。ある人々は「イエスは蘇生したのだ」と言い、またある人々は「弟子たちが、愛するイエスを失った深い悲しみの故に、イエスが蘇ったと思い込んだのだ」とか「誰かがイエスの遺体を盗み出しただけだ」とか言います。「そんな話はどこの国や地域にもある神話に過ぎない」という人々もいます。

聖書そのものはそれについてどう語っているのでしょうか。二人の弟子たちがエルサレムから11km離れたエマオの村に向かって歩いていました。歩きながら、十字架に関わる一切の出来事について語っていました。

その「一切の出来事」とはこんなことです。十字架の出来事の後、週の初めの日の明け方に、イエスの弟子の女たちが香料をもってイエス様が葬られた墓に行きました。すると、墓を塞いでいたはずの大きな石が脇に転がされていました。奇妙に思って女たちが墓の中に入ると、そこには御使いがいて「あなたがたはなぜ、生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。蘇られたのです」と彼女らに告げました。彼女たちは驚き、恐れて顔を伏せましたが、御使いはさらにこう告げました。「ガリラヤで聴いた話を思い出せ」。彼女たちはそれで、イエス様がかつて十字架と復活について語っていたことを思い出し、そしてその通りのことが起こっていることを知りました。そこで、彼女たちはペテロたちのところに行って、墓で起こったすべてのことについて話しました。しかしペテロを始め、使徒たちは「たわごとだ」と言って信用しませんでした。英語の聖書では「ナンセンス」と訳されています。

そんな「ナンセンス」な出来事について、二人の弟子たちはエマオに向かう道すがら、歩きながら話していたのでした。そこに、復活したイエス様が二人に近づいて、すぐ近くを彼らと一緒に歩きましたが、彼らは気付きませんでした。彼らの目は閉じていて、それがイエス様だとわからなかったのです。

そこでイエス様は彼らに、旧約聖書を解き明かしながら、自分自身のことを語り、聖餐を執り行いました。そのイエス様の仕草を見て、弟子たちは「主が本当に蘇ったのだ」と信じるに至りました。使徒トマスが、最後まで復活を信じられずに、イエス様の脇腹の傷に指を差し入れたことは有名なエピソードです。

イエス様に最も近かった弟子たちでさえ、容易に信じることはできなかった、と聖書は語っています。それほど信じ難い、他に例をみないことが起こったのだと、聖書は告げているのです。復活の出来事が弟子たちの願望による妄想であるなら、このような疑いの過程は記されるはずがありません。遺体が盗まれたのであるなら、墓場での女たちの証言などは記さない方が信憑性が高まるでしょう。そういった「にわかには信じ難い」「信じてもらうためには都合の悪い」事実が聖書に記してあることが、逆説的に「イエスは本当に蘇った」ことの何よりの証左となるのです。
—————————————
イースター礼拝は新しい方が9人も来て下さり、リピーターの方もたくさんいらっしゃったので、礼拝は補助イスが出動するくらいの盛況となりました。こんなに盛り上がったイースター礼拝は初めてです。将来的にはクリスマスと同じくらい盛り上がるようになると嬉しいのですが。

それではまたいずれ。主にありて。

※あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。