説教要約4月9日「救いの完成」
ヨハネ19:16~30

今日から受難週ですから、今回はいつものローマ書から少し離れて、ヨハネの福音書から説教します。イエス様が十字架につけられたのはイースターの日前、即ち今週の金曜日にあたります。その十字架の出来事を思いつつ、今週一週間を過ごしたいと思います。

16節に「そこでピラトはそのとき、イエスを十字架につけるために彼らに引き渡した」とあります。そして17節には「彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って『どくろの地(ヘブル語でゴルゴタと言われる)』に出て行かれた」とあります。

ここには矛盾があります。どういうことでしょう。ピラトはイエス様を十字架につけるために彼ら(群衆)に引き渡しました。群衆はイエスさまを引き取りました。ここに、引き渡す者と引き受ける者の関係があります。この時、イエス様は囚われの身であり、自由がありません。にも関わらず、イエス様は「ご自分で十字架を負ってゴルゴタの丘に向かって歩き始められた」というのです。まるで、すべての人を振り払うかのように、イエス様は十字架を負ったのです。引き渡す者の意志も、引き受ける者の意志も関係なく、イエス様はご自分の意志で十字架に向かって行ったのです。

一般社会でも時折「十字架を負う」という言葉を聞くことがありますが、これはもちろん聖書由来の言葉です。イエス様は「己の十字架を負って我に従え」と言いましたが、これは従順を求める言葉です。世の中で用いられるように単純に「犯した罪を自覚して歩む」ような意味ではないのです。なぜならイエス様は何の罪も犯していないからです。イエス様は、私たちの救いのために、父なる神の計画に従順になり、自ら十字架に向かって歩まれたのです。

イエス様には不安はなかったのでしょうか。決してそんなことはありません。イエス様はゲッセマネの園で父なる神に「御心ならこの杯を取り除いて下さい」と祈りました。十字架の死はイエス様でさえ、できれば避けたいことでした。ここにイエス様の葛藤があります。聖書学者フリードリヒは「ただ、ここで神ご自身が働いておられる」と言いました。

こうして、イエス様は使命を担って、自分の十字架を負ってゴルゴタの丘で十字架にかけられました。十字架の上には「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」という罪状書きが銘打たれていました。群衆はイエス様を嘲り笑いました。しかし、その十字架の出来事は、ピラトによって行われたのでも、群衆によって行われたのでも決してなく、イエス様ご自身が父なる神の計画に従って行ったことなのです。だからこそ、そこに私たちの救いが完成するのです。それがピラトによる業、群衆による業であるならば、私たちの救いは完成しないのです。

その一部始終を見ていた使徒ヨハネはイエス様が十字架の上で「完成した」とおっしゃって息を引き取った事実を見て聴きました。そして、証言しました。その証言が、今日も福音として私たちの救いが完成したことを証ししているのです。
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今朝の電車はいつもよりも空いていました。やっぱりGW9連休という方もきっとそれなりにいらっしゃるんでしょうね。僕は年間を通して、最長でも3連休しかとれません。なぜなら事務所の植木に水をやったり、亀にエサをやったりしないといけないからです。仕事場で生き物を育てるのは、やめた方がいいと思います。

それではまたいずれ。主にありて。

※あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。