説教要約4月2日「あわれみの神」
ローマ9:14~23

イスラエルの民は、神様に不満を持っていました。その不満とは、神様は自分たちを選民として選んだのにも関わらず、自分たちはローマ帝国の属国とされ、貧しい生活を強いられている、ということでした。「神は自分たちを捨ててしまったのか」「神は私たちを勝手に選んでおきながら、勝手に捨てた。ひどいものだ」と思っていたのでした。

このイスラエル人たちの姿は、私たちにとっても他人事ではありません。この姿は私たちクリスチャンの姿でもあります。私たちも神様の恵みの主権のうちに、様々な境遇から教会に導かれ、イエス様を信じ、洗礼を受けて神の民に加えられ、キリスト者として生きる者となりました。ところが、私たちもまた、苦難や試練があると、神様に見捨てられたかのような感覚に陥ることがあります。神様を遠くに感じてしまうのです。「神様は私を捨ててしまったのか」と私たちも神に問うことがあるのです。

パウロはそんな私たちの問いに「絶対にそんなことはない」と答えます。パウロは9節から13節でヤコブとエサウのことを取り上げています。ヤコブは弟の身分でありながら、兄エサウから長子の権利(財産相続権)をだまし取りました。そして、そのまま神の選びの恵みにも与りました。人間的な倫理観でみれば、兄を騙したヤコブが祝福され、善良であったエサウが祝福から外れるのは理不尽なことに見えます。

エサウはハンサムで、周囲の人からも人気があり、狩りの腕前も一流の優れた人物でした。しかし、それ故に、自分が父の財産を相続するのは当たり前だと思っていましたし、自分自身の能力が高かったので、神様に頼ること、神様に祈ることをないがしろにしていました。神様はそんなエサウに悔い改めの機会を何度も与えましたが、彼はその機会をことごとく逃してしまいました。

一方、ヤコブは決してハンサムとは言い難いルックスでしたし、狩りの上手な兄に比べて体力にも劣り、また狡猾な性格でしたから、周囲の人からの人気もあまりありませんでした。しかし、彼はエサウと違って、神と格闘し、神の前に砕かれて、自分の弱さを受け入れました。その砕かれた姿ゆえに、神はエサウではなく、ヤコブを選んで祝福の民の祖としたのです。

出エジプト記に登場するエジプトのパロも、「十の奇跡」を見せられて何度も悔い改めの機会を与えられましたが、その機会をことごとく拒否してしまいました。。主イエスを裏切ったイスカリオテのユダも二度に渡って悔い改めの機会を与えられましたが、拒否してしまいました。

神の救いとはこのようなものなのです。神は、人がどんなに優れていても、その能力に頼って神の前に砕かれない人間を選ぶことはありません。神の前に立ち、神の前に砕かれ、自らの弱さを受け入れ、悔い改める者を、自らの祝福の民として選ぶのです。そして、陶器士が器を作るように、試練や苦難を通して、目的にそって、私たちを作り替えるのです。陶器士が選ぶのはカチカチの堅い粘土ではありません。それでは思うような器を作れないからです。彼らは柔らかくて、自分の思う形になる粘土を選ぶのです。

ですから、苦難や試練の時、私たちは見捨てられているのではなく、粘土で言えば陶器士にまさに今、こねられて形作られている時なのです。

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GW目前ですね。目前、というか、もう既にGW真っ最中という方も多いのかも知れませんね。どうか皆様、実り多き連休をお過ごし下さい。私たちは5月3日に浅草橋教会の「教会宣教会議」に出席して、短い時間ですがWEB伝道についてお話させていただく予定です。話すことにはあまり慣れていないのですが、神様が語らせて下さることを信じて、頑張ろうと思います。あと、浅草橋近辺で、美味しい晩ご飯を食べられるお店をどなたか知りませんか。せっかくなのでちょっと美味しいものを食べたいな、なんて思っています。

それではまたいずれ。主にありて。

※あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。