説教要約3月19日「牧者の心」
ローマ9:1~5

牧者の心とは現代で言うならば牧師の心ということです。そして、最高の牧者とは主イエスのことです。ですから牧者の心とは究極的には主イエスご自身の心ということです。

パウロは2節で「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」と言っています。パウロは元々ユダヤ人ですから、同胞であるユダヤ人たちの姿を見て、大きな悲しみを味わい、絶えず心を痛め続けていたのでした。

このローマ書9章はよく「ユダヤ人問題」を扱っていると言われます。しかし、10章10節に「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです」とあります。9章は単なる「ユダヤ人問題」の章ではなく、これはパウロが同胞たちの救いのために捧げた祈りなのです。

私たち日本のクリスチャンは、同胞である日本人の救いのために祈り続けているという点で、このパウロと共通しています。ですからこの章を「ユダヤ人の問題でしょ」と他人事にして読み流してはいけないのです。

パウロは、4節で「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです」と言っています。パウロはあえて「ユダヤ人」ではなく「イスラエル人」という言葉を用いています。「ユダヤ人」とは民族の呼び名です。一方で「イスラエル人」というのは神との関係を回復した人々の呼び名です。

新約聖書では、クリスチャンは「霊のイスラエル」と呼ばれることがあります。それは、クリスチャンもまた「神との関係を回復した人々」であるからです。私たちは今、「霊のイスラエル」なのです。「イスラエル」とは元々「神の皇太子」という意味です。ですから私たちクリスチャンは「神の皇太子」という身分が与えられているのです。それも、私たちの功績や努力によるのではなく、神の絶対的な主権による、一方的な恵み、選びによってそういう身分が与えられたのです。

ユダヤ民族もまた同じように、彼らの功績や努力によったのではなく、神の絶対的な主権による一方的な恵み、選びによって「選民」となりました。彼らには律法が与えられ、彼らは神の特別な恵みを知る民族となりました。

しかし彼らは旧約聖書に予言されている救い主イエス・キリストを受け入れることができませんでした。しかもあろうことか、その救い主を十字架にかけてしまいました。そしてパウロの時代になってもなおも主イエスに従う人々を攻撃し、弾圧していたのでした。そんな同胞たちの姿をみて、パウロは日々、心を痛めていたのでした。

しかし、心を痛めながら「愛する者が救われるためなら自分が呪われても良い」と3節で言っています。これが牧者の心というものです。私たちには同胞である日本人の救いのために自分が呪われても良いという心があるでしょうか。牧者の心は牧師だけが持つべき心ではなく、クリスチャン一人一人が各々、牧者として持つべき心です。
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暖かいと思ったら急に寒くなったりして、先週末はすっかり風邪をひいてしまいました。風邪は人に移すと治るなんてよく言われますけれど、逆に人から自分に移ればその人の風邪が治ると考えるなら、「僕に移してもいいから、あなたには元気でいて欲しい」という心が、スケールは小さいとはいえ、「牧者の心」に近いのかな、なんて思いました。しかし僕は風邪でさえなかなかそんな風には思えません。風邪の人がいたら「うつされたくないなー」と思って不用意に近づかないようにしたりしちゃいます。

まだまだ牧者の心を持つに至らない、ぐうたらクリスチャンのマロでした。

それではまたいずれ。主にありて。

※あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。