説教要約3月26日「神の選びの計画」
ローマ9:6~13
アセスメントというのは字義的には「評価」という意味で、患者や相談者に関する情報を収集・分析して、解決すべき課題を把握することです。対人援助の仕事をしている方々にとって、アセスメントというのは日常に欠かせない業務であり、牧師も対人援助職の側面を持っていますから、教会にも欠かせない概念です。
パウロはイスラエルの民に神学的なアセスメントを与えています。まず、パウロは神の立場に立ってアセスメントを始めます。神は、イスラエルの民を自らの絶対的主権によって選びましたが、その民は背信を続けました。故にイスラエルの民に対して神は心を痛め、怒りを感じていました。一方で、イスラエルの民はと言えば「神様は自分たちを勝手に選んでおきながら、今、自分たちをローマの属国にし、貧しい生活を強いている。神は約束を無効になされたのか」と不満を感じていました。
このイスラエルの民の姿は、私たちにとっても他人事ではありません。私たちクリスチャンも同じような不満をもつことがあるものです。「神様の恵みに従ってクリスチャンになったのに、神様は私に何も良いことをしてくださらない」と。
しかし、そんなイスラエルの民に対して、パウロは「神のみことばが無効になったわけではありません」と断言しています。そして「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからと言って、そべてが子どもなのではなく、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる』のだからです」と言います。この文章に出てくる最初の「イスラエル」とはヤコブのことで、二番目の「イスラエル」は選ばれた民という意味です。ですから「ヤコブから出る者がみな、選ばれた民なのではない」と言っているのです。
ヤコブは、父イサクの財産相続の権利を、兄エサウからだまし取りました。エサウに変わって、父の祝福を得るところまでは良かったのですが、ヤコブの誤算はそれによって故郷を追われてしまったことでした。どんなに心寂しかったことでしょう。しかし、そんなヤコブと共にいた神は、ヤコブの行く先々で祝福を与えました。そしてある日、神はヤコブに故郷に帰るように告げました。しかし、ヤコブは不安でした。兄エサウが怖かったのです。ですから、自分の陣営を二つに分け、自分は最も安全なところに身を隠しました。
その夜、ヤコブは神様と相撲をとりました。神は、その時のヤコブがあまりに強かったので、ヤコブの腿の骨を折りました。そしてこの時、神はヤコブに「イスラエル(神に勝つ者)」という新たな名前を与えました。そのヤコブの子孫である故に、イスラエル民族もイスラエルと呼ばれるようになりました。ヤコブは追いつめられた状況で、神にすがるしかなく、神を話すまいと、必死でその体にしがみついたのです。それ以外に、エサウと会う不安を解消する術がなかったからです。約束が肉によるのであれば、エサウも選ばれた民です。しかし、そうではありません。エサウは選ばれず、神にとことん食い下がったヤコブが、その信仰により選ばれたのです。ですから、イスラエルの民も、民族としてイスラエル人に産まれた者が選ばれた民なのではなく、神に従い、とことん食い下がる信仰を持った者が選ばれた民なのだということです。
また「イサク」とは元々「笑う」という意味です。これはイサクの両親であるアブラハムとサラが「子どもを与える」という神様の約束を笑ったことに由来した名前です。アブラハムとサラは「年老いた自分たちに今さら子どもが産まれるわけがない」と、神様の約束を笑ったのですが、後に約束通り本当に子どもが与えられたので、この子をイサクと名付けたのでした。
このアブラハムの姿も私たちクリスチャンにとって他人事ではありません。私たちクリスチャンは時として神の約束を信じられず笑ってしまうほどに、不信仰であり、葛藤する者であるのです。
信仰とは、神の約束の上にあぐらをかいて「神様は何もしてくださらない!」と不満をもつことではありません。そういう人は実は神様の約束を心のどこかで笑ってもいるのです。本当に信じる人は神様にしがみつき、食らいつきます。腿を折られても引き下がらない、ヤコブのそのがむしゃらな信仰を神様は良しとして「選びの民」としたのです。
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テレビのニュースでは東京の桜の満開宣言が出ていましたが、教会の近くの駒沢公園の桜はまだせいぜい4〜5分咲きといったところでした。気象庁はいったい、どこの桜を基準にして満開宣言を出しているのでしょう。。。ともあれ、まだまだお花見シーズンが続きそうですから、ようやく暖かくなってきたことですし、楽しみたいですね。
それではまたいずれ。主にありて。
※あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。