12月18日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約12月18日「讃歌が伝える福音」
ルカ1:46~55

今日の箇所は「マリアの讃歌」と呼ばれ、アドヴェントの季節に良く読まれる有名なものです。この讃歌は「わがたましいは主をあがめ」という言葉から始まります。ラテン語では「あがめる」という言葉が最初に出てきます。「あがめます、わがたましいは主を」ということです。そのためにこの箇所が「マリアの讃歌」と呼ばれることになりました。

ではこの讃歌は何を歌っているのでしょうか。「マリアは言った。『わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜び讃えます』」とこの讃歌は始まります。マリアは神を讃える理由として「主はこの卑しいはしためにも目を留めて下さったからです」と言っています。新共同訳ではこの「卑しい」が「身分の低い」と訳されていますし、キングジェームス訳でも「身分の低い」と訳されています。この「身分の低い」という言葉が旧約聖書に登場する預言者サムエルの母ハンナの祈りと重なっていると言われています。この「身分の低い」は社会的・経済的な身分の低さとその苦しみや生活苦を表しています。それだけではなく、「低い」とは陽の当たらない場所、世の陰の部分を意味しています。それは、人生が苦しいとか、自分など存在する意味がないと悩み苦しむ人々を代表しているのです。

マリアは「私は主のはしためです」と、自分が非常に小さな者であると自己認識しています。この姿は決して自己卑下ではなく、謙遜と言えるものです。マリアのこの態度は我々クリスチャンが手本とすべきものです。しかし、この讃歌の中心はマリアのその態度ではなく、あくまでもその「低き者」に目を常に留めて下さる神様にこそあります。マリアもあくまで私たちと同じ「低き者」です。そのようにマリアがここで言っている、まさにその通りです。マリアはその「私をしあわせ者と思うでしょう」と「低き者が幸せである」と言っています。私たちクリスチャンはこの幸せにこそ、この恵みの中にこそ、生きるべき者です。低き私たちにこそ、神様はいつも目を留めて下さり、恵みを下さり、それによって私たちはしあわせ者なのです。

「低き者でも幸せになれる」ではありません、低き者が幸せなのです。それをなして下さる神様の恵みがこの讃歌の主題です。この恵みを忘れず生きていきたいと思います。

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それではまたいずれ。主にありて。