12月11日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約12月11日「伝えられた基準の福音」
ローマ6:15~23
私たちの生活には、様々な面で基準というものが必ずあるものです。
その基準に照らして、私たちは物事の善し悪しを判断したりします。
正統的な信仰についても同じことが言えます。何が正当な教会であり、正当な信仰であるのか。
基準がなければ判断することができません。
パウロはローマ書で「身代わりとしての十字架」「決算としての十字架」「共につけられた十字架」という三つの十字架を語っています。特に三つ目の「共につけられた十字架」を経験した者の具体的な生き方を「服従」「従順」「奴隷」「僕」という言葉で表現しています。
さらに特にこの箇所で気になる言葉は「人間的な言い方(19節)」という表現です。パウロは16節で「あなたがたはこのことを知らないのですか」と問うています。「恵みの下で生きる」という生き方に気付いていない人々がローマ教会にいたからです。そのため、わざわざ「人間的な言い方」と言っているのです。
パウロは、服従、従順という言葉をくり返し用いています。これらの言葉は「僕」という言葉と深い関係があります。その関係を説くのに鍵となる言葉は「服従」です。この言葉はギリシア語では「聴く」という意味です。何かに従うにはまず、聴くことが必要です。聴くことなしに口先だけでは本当に従うことはできません。
人間は常に何かに仕え、「僕」「奴隷」になっている存在です。他者の声、自分の内なる声など、何かの奴隷になっているのが、人間の実の姿です。パウロは、人間には「罪に仕える生き方」と「義に仕える生き方」があると言っています。ローマ教会には、神の民とされて自由になったのだから、と言って、勝手気ままに振る舞う人がました。パウロはそんな人々に「そうではない」と言い、そんな人々が生じてしまった理由を「「伝えられた教えの基準に心から服従しないから」と指摘しました。
福音にオリジナルの原典はありません。福音の基準を主イエスから弟子が受け取り、世代から世代へと受け渡されて現代に至っています。主イエスの授けてくださったその基準に身も心も委ねて生きることが「聖潔」の歩みなのです。
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急性胃腸炎になりました。ようやく良くなりましたがしんどい一週間でした。先週末、焼肉に行って「食欲の奴隷」になってしまったせいだと思います。でもおかげで、少し体がスリムになりました。
それではまたいずれ。主にありて。