説教要約5月28日「恵みによる選び」
ローマ11:1~10

NHKに「里山」という番組があります。その番組で、先日ハチミツを生産している方々が紹介されていました。彼らはブナの林の近くにミツバチの箱を設置し、そこにミツバチを放して巣を作らせて蜜を採集します。彼らはこれを「自然の恵み」と話していました。自然の恩恵に与ることが「恵み」であることは誰もが感じることかと思います。

恵みは自分の内側ではなく、自分の外側から来るものです。人はミツバチの力を借りなくては蜜を得られません。そもそもブナの木が蜜を出さなくては蜜を得られません。彼らは自分の外側の力によって、蜜を得ているのです。

イスラエルの民は「自分たちは神に選ばれた民である」ということにあぐらをかいていました。その「選ばれた民」である自分たちがどうしてこんなに辛い目にあうのか、と、神様を責めていました。彼らはローマ帝国の侵攻により、属国となり自主性を失い、自由を奪われ、希望を見出せない状況にいました。彼らは「神はご自身の民を退けてしまわれたのですか」と神に問いました。このような問いはイスラエルの民だけでなく、私たちも抱くことがあるものです。クリスチャンなら人生で必ず何度かはこのような問いを発することがあるでしょう。

パウロはそんな問いに対し「絶対にそんなことはない」と力強く答え「この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です」と語ります。この問いと答えは、パウロ自身の存在に深く関連しています。パウロはかつてはクリスチャンを迫害し、教会を破壊するものでした。そんな自分は本来、神の選びの民としての資格はない、しかし、神は一方的な恵みによって自分を救って下さった、そのことをパウロは語っているのです。

自分の内側、自分の存在自体に根拠を求めれば救われるはずのない者。そういう者が救われるなら、それは必ず外側からの恩寵があるのです。パウロは「自分でさえも救われている。だからあなたがたを神が退けるはずがない。この私を見よ」と言っているのです。

人は自分でハチミツを作れません。自然から恵まれなくてはあの甘みは味わえません。同じように人は自分で救われることはできません。神様から恵まれたのでなくては救いの恩寵には与れないのです。しかし、だからこそ、誰にでも救いは開かれており、どんな人でも神様に恵みを求めることができるのです。

神はイエスキリストを世に遣わし、十字架につけて救いを完成させて下さいました。その救いは、求める者に、行いによらず、地位によらず、過去によらず、無条件に与えられる恵みです。
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梅雨に入ってしまいましたが皆様、体調を崩したりしていないでしょうか。考えてみれば雨というのも完全に「外側からの恵み」ですね。これだけ技術が発達した世の中でも、雨が降らなければ取水制限なんかで不便な思いをしちゃうのですから。蛇口をひねるのは自分ですし、水道代を払うのも自分ですが、その根っこのところは少しも自分でやれない、そういうものですね、人間って。

それではまたいずれ。主にありて。

※あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。