説教要約5月21日「キリストのことば」
ローマ10:14~21

私たちのコミュニケーションには言語コミュニケーションと、非言語コミュニケーションの2つがあります。私たちが普段行っているコミュニケーションは93%が非言語コミュニケーションで、言語コミュニケーションはわずか7%なのだそうです。しかし、だからといって言語コミュニケーションを軽視して良いわけではありません。人は言語によって、最も明確に自分の意志を伝達することができるからです。

聖書は神様から私たちへの言語コミュニケーション、即ち神の言です。聖書にはたくさんの著者がいますが、彼らは互いに話し合って帳尻を合わせながら聖書を書いたのではありません。時代的にも地理的にもバラバラの著者たちが互いに知ることなく書いたものが見事な整合性をもって66巻の聖書として著されたのです。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です(IIテモテ3:16)」とあるように、彼らは神の霊感により結びつき、一つの聖書を記しました。この「神の霊感」とは「神の息吹」「神のインスピレーション」という意味ですから、聖書は神の内から神の言が息吹のように溢れ出たものだということです。そして、その息吹は著者たちの個性を存分に用いながら、ダイナミックに聖書として現出したのです。

このように現れた神の言に聴く、ということが私たちに神様が求めていることです。神の言に聴く、とは神との対話の始まりであり、神と向かい合うということです。ユダヤ人たちは神に選ばれた選民でありながら、神と向き合うことができませんでした。彼らは神様に一番近い所にいたというのに、不思議なことです。しかし、考えてみれば私たちも同じかもしれません。私たちも案外、近くにいる人の言葉を一番聞けないものかもしれません。

パウロはユダヤ人たちに、神の言を聴いているのはユダヤ人ではなく、むしろ異邦人であり、異邦人たちが神の言に変えられて、新しい人生を歩んでいることを告げました。「聴く」というのはギリシア語では「アクオー」であり、「従う」「従順」という意味を含みます。つまり、「聴く」というのはただ単に耳で聴くだけではなく、それに従って初めて成立するものなのです。

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ペテロとアンデレは「ついて来なさい」の一言でそれまでの漁師家業を捨て、イエス様に従いました。どうしてたった一言で人の人生を変えられるのか、と不思議に思っていたのですが、7%の言語コミュニケーションの裏に93%の非言語コミュニケーションが隠れていると考えると合点がゆきます。ペテロ達は93%の神の取扱いを受けていたからこそ、「ついて来なさい」の一言で迷わず動けたのかな、とそんなことを思いました。

それではまたいずれ。主にありて。

※あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。