説教要約6月25日「霊的な礼拝」
ローマ12:1~2

一般的に礼拝と言うと「堅い」「難しい」「暗い」などのイメージを持っている人が多いのではないでしょうか。また「私なんぞが礼拝に参加してもいいのだろうか」と感じる人も少なくないようです。無理もないことだと思います。「礼拝とはなにか」を知ることは、クリスチャン生活や教会生活の根幹を知ることであり、非常に重要なことです。

英語では「礼拝」には2つの言い方があります。一つは「Worship」でもう一つは「Service」です。「Worship」は「最高の価値がある」という意味であり、「Service」は「仕える」という意味です。つまり「礼拝」とは「最も価値があり、仕える価値のあるもの」ということです。だからこそ多くのクリスチャンは毎週礼拝に来るのです。

パウロはローマ書12章からクリスチャン生活の実践について語ります。その冒頭で「霊的な礼拝とはなにか」について強調しています。クリスチャン生活は霊的な礼拝なしには成り立たないからです。そこでパウロは12章1節で「そういうわけですから、兄弟たち」と呼びかけるのです。パウロはこの呼びかけによって、何が一番大切であるのかを語ろうとしています。その後に続くのは「私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」です。パウロは「霊的な礼拝」を強調しています。

一方で「生きた供え物」この言葉は一見すると矛盾があります。「供え物」とは「生贄」のことです。動物を殺して、供え物とするわけですから、「供え物」は大前提として死んでいるものです。しかし「生きた供え物」とある。どういうことでしょう。その答えはキリストにあります。キリストは十字架に供え物としてつけられましたが、復活しました。命を保ったまま、供え物となったのです。霊的な礼拝とはこのことです。十字架に自分のありのままの真実を供え物として明け渡すことをいうのです。
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ものすごく更新をサボってしまってごめんなさい。これから頑張って遅れを取り戻します。

それではまたいずれ。主にありて。

※あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。