説教要約6月11日「栄光は神に」
ローマ11:33~36

先週のテレビで、卓球の世界選手権で金銀銅のメダルラッシュの報道が流れていました。選手たちを出迎えるために空港に多くの人が押し寄せている映像が流されていました。卓球のアスリートたちは、メダルという栄冠を手にし、栄光を勝ち取ったのです。

この姿をみて改めて思わされることがあります。人間の栄光は、人がそれをどう評価するかによって変わってしまうということです。一つの競技に対し、誰もが同じような(もちろんひとそれぞれある程度の違いはあるでしょうが)努力を重ねるにも関わらず、ある人は栄光を手にし、ある人は挫折・失敗を味わいます。また、同じくスポーツのメダルにしても、人気のある競技とそうでない競技とでは、人々の評価は変わって来ます。人間の栄光は人間の評価によって左右されるものなのです。

ウェストミンスター信仰問答には「人間の目的は何ですか」という問いがあります。その答えは「神に栄光を帰し、神を喜ぶことです」となります。見事な答えです。人間の求める栄光は、別の言い方をすれば自己実現ということです。自己実現とは自分の栄光を自分に帰すことです。それは聖書的ではありません。

私たちクリスチャンは「神の栄光のために」「神の栄光を現そう」という言葉を耳にタコができるほど聞いているのではないでしょうか。しかし、その「神の栄光」を、人の栄光の基準で判断していることはないでしょうか。たとえばクリスチャンの選手がメダルをとれば、それが神の栄光を現すことになる、というようにです。どれが神の栄光で、どれが神の栄光でないか、その判断を人間自身がしてしまっていないでしょうか。そして、そのことで互いに傷付け合っていないでしょうか。

パウロはそんな「神の栄光」を、「そうではない」と言います。パウロ自身、改心の前は地上の栄光を求めて律法を学び、一流の教師となり、学者となりました。そして律法を学び、「何一つ欠けることのない者」として生きました。そんなパウロが、そこには神の栄光はない、と言っているのです。パウロは「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と計り知り難いことでしょう」と神を讃美しています。

私たちに対する神様の知恵と知識の富は、私たちが考えること以上に高く深いのです。そして常に最善です。恵みは勝ち取るものではなく、神のものです。人が認めなくても、神の恵みを受け取り、喜ぶ姿こそが、何よりの神の栄光を現すことなのです。「常に喜んでいなさい」この言葉にこそ、真に神の栄光を現す何よりのヒントがあるのです。
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梅雨のせいか、肩こりのひどい日が近頃多いのですが、肩こりのときに肩のストレッチをすると、滞っていた血がすーっと通るような、何ともいえない心地よさがあります。良くない時にしか味わえない良さがある。肩こりでも、ストレッチして笑顔になれれば、それが神の栄光!!

それではまたいずれ。主にありて。

※あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。