木曜日になりました。皆様ごきげんいかがでしょうか。マロでございます。今週もお付き合い下さいませ。

このコラムの第3回で、ヒルティの幸福論のお話をしたのですが、今日も同じヒルティの幸福論から話を進めようかと思います。幸せというのは、誰もが興味のあるトピックで、「幸福論」と呼ばれる書物はたくさんありますが、僕はヒルティのものが一番しっくり来ます。キリスト教から少し離れれば「老子」なんかも好きなんですが。

さて。ヒルティによれば、幸せは「いつかたどり着くもの」ではありません。「ここではないどこか」にあるものではありません。それは毎日毎日、与えられているものです。聖書に「明日のことを思い悩むな。今日の苦悩は今日のうちに十分にある」ということばがありますが、この「苦悩」を「幸福」に置き換えても、同じことが言えます。

幸せは、神様から与えられる日払いの報酬です。今日の幸せは、今日のうちに受け取らなくてはならず、明日になったらもう受け取ることができません。昨日の分を後から受け取ることもできないし、明日の分を先に受け取ることもできません。毎日、忘れずに受け取るようにしなくてはいけないのです。それは、桜が咲いたら梅はもう見られず、牡丹が咲いたら桜はもう見られないのと同じです。幸せは、花のようなものです。花は、咲いている短い時間にそれを愛でなくては、散ってしまった後にいくら愛でようと思っても、それは叶わぬことなのです。

毎年、必ず桜が咲くように、毎日、必ず幸せは与えられます。僕たちはそれをただ、受け取りさえすればいいのです。桜は見返りを求めません、同じように日々の幸せも見返りを求めません。幸せになるのに資格は要りません。桜を見るのに資格が要らないのと同じです。

「明日、幸せがあるだろうか」なんて心配する必要はありません。それは「来年は桜が咲くだろうか」と心配するのと同じです。桜は何百年も、咲き続けているのです。毎年毎年、約束通りに、春に。

毎日毎日、約束通りに、ちゃんと幸せはありますよ。受け取っていきましょう、毎日忘れずに。

 

今日は少し短めですが。

それではまた来週。主にありて。
マロでした。