12月4日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約12月4日「義の武器として」
ローマ6:12~14

アドヴェントの第二週を迎えました。今日は受胎告知を受けたマリアに思いを馳せつつ聖書の言に聴きたいと思います。パウロは、人間には二つのタイプがあると語っています。それはアダムのタイプとキリストのタイプです。そして、すべての人間は元々はアダムのタイプに該当すると言っています。パウロは、コリント人への手紙の中で「罪の支払う報酬は死です」と記していますが、これはアダムのタイプ、即ちすべての人間の生き方は死に向かう、ということです。それに対して、キリストのタイプとは、つまり主の救いを受け入れてクリスチャンとなった者のことを指しますが、ヨハネ3:16にあるように、「永遠のいのち」に至る生涯を歩みます。

パウロは、洗礼を通してキリストに繋がり、神の共同体の一員になったということを「キリスト・イエスにあって生きた者だ」と「思いなさい」と言っています。この「思いなさい」とは「認めよ」という言葉です。パウロは「受け取れ」と言っているのです。己がアダムのタイプから洗礼を通してキリストのタイプに変わる、このことをよく理解しなさい、ということです。

ローマの教会は、「家の教会」でした。「家の教会」とは特定の礼拝堂等を持たず、各々が自宅で礼拝を持つ、家庭集会のような形態の教会を指します。彼らはこのローマ人への手紙を回覧板のように家の教会ごとに回し読みしていました。その家の教会の中にはしかし、情欲に従って罪の支配の中に戻ってしまったような生き方をしている者もいました。この「支配」とは「王様」ということです。王様は人々を支配する力を持っています。罪という「王様」は「情欲」という権力で人間を従わせてしまいます。それでパウロは、キリストに繋がった者は、もはやこの「情欲」という権力に従ってはならない、「罪」を王様として立ててはならない、と言っているのです。

パウロは「あなたがたの手足を不義の器として罪に捧げてはいけません」とも言っています。13節には「ささげる」という言葉が二回使われていますが、この「ささげる」とは「祭壇の上に置く」ということです。パウロはこの13節で、「自分の手足」を「不義の器として」ではなく「義の武器として」ささげなさいと言っているのです。パウロは具体的に「手足」と表現しています。これは旧約聖書の出エジプト記に描かれる、アロンの祭司任職式のとき、「右の耳たぶ」「右手の親指」「右足の親指」・・・と、肢体の一つ一つに細かく、雄羊の血を塗って聖別したことに由来します。漠然とした「自分」ではなく、具体的な一つ一つの自分を義の武器として捧げよと、神様は言っているのです。また、罪も漠然とした「自分」ではなく具体的な一つ一つの行動を情欲に従わせることによって起こってしまうのです。

アダムのタイプとキリストのタイプでは奉る「王様」が違うのです。神様を王とした者は自分の具体的な一つ一つのものを神様に捧げるのです。そしてその捧げた一つ一つが「義の武器」となるのです。

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今夜は焼肉を食べに行く予定です。楽しみです。「王様」にしなければ、情欲自体は必ずしも悪いものではありません。「肉を喰らいたい」という情欲を「王様」にしないように、ちゃんとタマネギとかピーマンとかも食べようと思います。

それではまたいずれ。主にありて。