ごぶさたぶりでございます。上馬教会随一のズータラ教会員の面目躍如で、長いことブログ更新をサボっておりました。Twitter担当の太郎君に「お前、いい加減にせえや」と言われて、ようやく筆を取っている次第でございます。

最近、ふと気づいたことがありまして。ノンクリスチャンの方でもよく知っていて、よくあちこちに引用される「神様は超えられない試練を与えない」という聖句についてです。これはコリント人への手紙第一の10章13節のことばなのですが、世間ではこの13節だけが有名になってしまって、その前後の節はちっとも 有名じゃないんです。

10章全部を読んでいただければ分かるのですが、この章で語られているのは主に誘惑に対するあり方です。この章は人生を生きている上でやってくる様々な誘惑にいかに対処するか、ということが書いてある章なんです。その中でこの「神様は超えられない試練を与えない」とい うことが書かれているのです。つまり要するに、ここでいう「試練」というのは「誘惑」のことなのです。どんな誘惑があってもあなたはそれに耐えるなり避けるなりすることができるはずですよー、ってことをパウロさんは言っているのであって、よく引用されるような「耐えられない悲しみや苦しみはない」というようなことは、パウロさんはちっとも言っていないわけであります。

ええそうです。僕はちょっと皆様の気が重くなってしまうようなことを言っています。「世の中には耐えられない程の苦しみも悲しみもある」と、こう言っているわけです、はい。ただ、それは単に悪いことばかりではないと思います。 人間には自分一人で越えられないような苦しみや悲しみも、必要なんです。そういうことを与えられてこそ、周りの人の助けとか、神様の救いだとかに初めて気 づけるわけですから。

だってあれですよ。極端な話を言ってしまえば、自分で超えられないような悲しみや苦しみがないなら、僕たちはイエス 様を必要としないわけです。神様は時に、その人には超えられないような苦しみや悲しみを与えます。そんな苦しみや悲しみにぶちあたって、困り果てる、弱り果てるときがあるからこそ、イエス様が救い主として必要なわけです。イエス様が一緒にその苦しみや悲しみを肩に担ってくれて、初めて越えられるものがあるのです。自分でなんでも越えられるなら、誰も何も苦労しないです。越えられない試練があるからこそ、人は苦しみ、悲しむ。苦しみ、悲しむからこそ、神に憐 れみを乞い、救いを求めることができるのです。

ちょっと最近この「神様は越えられない試練を与えない」ということば安易に引用し て「ポジティブシンキング」とかに持っていく風潮があるなー、と思ったので書いてみました。前々から僕も思うし、渡辺牧師も他の牧師もよく言われることなのですが、聖書の一節だけを引っこ抜いてことわざみたいに用いるのは非常に危険です。そういうことばは気をつけてみれば世の中にたくさんあるので、これからちょくちょくとそのシリーズでコラムを書いてみようかなーなんて思っています。

、、、とかなんだか偉そうなことを言いつつ。 「神様は越えられない誘惑を与えない」とか言われても、ついついお酒やらタバコやらいろんな誘惑に負けまくっている今日この頃のマロでございます。すみませんウソを言いました。「今日この頃」どころではなく、この世に生を受けてこのかた、ずーっと日々、様々な誘惑に負け続けております。今もこれを書きなが らお布団の誘惑に負けそうな状態であります。眠いです、はい。そんな、誘惑にめっぽう弱い僕でも養って下さる神様は本当にありがたいな、と思います。アー メン。

それではまたいずれ。主にありて。
マロでした( ・ิω・ิ )/