最終回はイースターを迎える前に読んでいただきたいので、いつもより早い時間の更新です。最後はちょっと「キリスト教寄り」のまとめです。教会のブログですからね、結論が「キリスト教寄り」になるのは当然です、はい。このブログで「南無阿弥陀仏と唱えましょう」とか言われても困るでしょう?

さて、参ります。

人は、ある時代は「死」と取引をし、ある時代は「死」を凝視し、そしてまたある時代は「死」を疎外しました。そしてもちろん、ここには書き切れなかったけれ ども、他にもたくさんの「死」への態度がありました。笑い飛ばした時代もあれば、自らそこに向かっていく時代もありました。美化された時代もあれば、卑下された時代もありました。しかし、それらはどれも「死の恐怖を克服したい」という人間の本能的な欲求に答えることはできていません。人は歴史を通じて、常 に「死」とイタチごっこをしているに過ぎません。否、死に翻弄されているに過ぎません。

たくさんの「死」への解釈が時代から時代へと流れ る中で、少なくとも2000年間、変わらずにそこで同じ主張をし続けている聖書を、私たちは持っています。むろん、カトリック教会は煉獄や免罪符に踊らされましたし、プロテスタント諸教会の中にも謝った解釈が様々に流布してしまっています。こうした教会は時として、「死」の解釈の上で、非常に重要なポジションを占めました。しかし、そうした時代は決まって、聖書が教会から疎外されていた時代でした。聖書は時代を超えて、死に関して人間に唯一にして究極の答えを与え続けています。

「キリストが十字架で死に完全に勝利した」

「死」は人の知恵や力で乗り切れるはずのない相手なのだから、キリストに身を委ねなさい、と聖書は語っています。人が自分たちであれやこれやと考えた思想に比べれば、はるかにシンプルな答えです。しかし、 このシンプルな答えが死を巡る思想の中心を占めたことは過去に一度もありません。教会の誤謬を「死」に嘲笑されたことはありましたが。

人は自分で考え、自分で解決したがってしまうものです。しかし、自分の死に対して、自分で解決しようとか、他者の死に関して自分が解決してあげようとか、そんなことはもう、先人たちがさんざんに挑戦して無惨な敗北を喫しているのです。むしろ、死に勝とうとしないこと、克服しようとしないこと、死そのものも、 死を恐れる自分自身も、すべてをそのままキリストに預け、キリストを主とすることにこそ、太古の昔から人が本能的に悩み続けてきたこの問題を解決する唯一の道なのです。

おつかれさまでしたーーーーー!!!!

さぁさぁ、これで安心して明日のイースターを祝えます。キリストが十字架で「死」に勝利して下さった日。実にめでたい日です。祝いましょう祝いましょう。

10 回の連載を通して、たぶん、「ここは違うぞ」とか「私はそうは思わない」という点も多々あったと思います。僕もここに書いたことが全部正しいとは思ってい ません。僕はそう考えた、というだけのことです。僕は欠けだらけの人間ですから、むしろすべてが正しいわけがないのです。ただ、間違いかもしれないことまで含めて、こうして公表することが、皆さんが「死」について考えるきっかけとか、一助となってくれればいいな、と思います。

これからお花見にでかけてきます。
明日からまた気まぐれな不定期更新に戻ります。

ではまたいずれ。主にありて。マロでした。( ・ิω・ิ )/