閑話休題

死は疎外されました。 では人は死に勝利したのでしょうか。

明らかに否です。人々の心に、死への恐怖は少しも消えずに残っています。その心は中世の狂乱のままでさえあります。ただ目をそらし、平静を装っているだけです。むしろまだ中世の人々は死を常に意識し、覚悟してきた分だけ良かったのかもしれません。今の社会では生まれてからずっと、目をそむけさせられていた死を、ある日突然に目の前に迎えなければなりませ ん。死への準備があまりにも足りません。家族の代わりに医師に囲まれて死を迎える人が80%を超えるといわれますが、それは、その人の家族もその人の死を体験できないということです。人は、下手をすれば、人の死を一度も経験しないまま、自分の死を迎えるのです。葬式も知っているし、大切な人を失う喪失感も知っている、しかし「死」を知らないままに。死とは何か、を問うことがこれほどまでに少ない時代は歴史上、他にありません。問わないし、問わせない。死を問うことは一つのタブーとなっています。死への問いとして最も重要な位置を占めた宗教も今日では「宗教?イマドキ?」と一蹴されてしまいます。唯物論を産 んだ哲学でさえも今ではほとんど宗教と同じ扱いを受けます。死を問う手段さえ、こうして封じられてしまっているのです。知ることも問うこともできない 「死」。ギリシアの快楽主義の祖、エピクロスは死を恐れる人にこう言いました。「恐れることはない。君が生きている限り、死は君には訪れないし、死が訪れるとき、君はもう存在しないのだから」。これは「運動している矢は静止している」や「アキレスと亀」と同じ詭弁です。しかし、その詭弁をたよりに、人は死から目を背け続けています。自殺、殺人、無差別テロ。疎外された「死」からのしっぺ返しと言えるかもしれません。そもそも「死」は倫理の形成される基盤だったのですから、「死」が疎外されればそこに倫理の育つ土壌もなくなります。「いかに死ぬか」は「いかに生きるか」と同じ問いなのです。

次が最終回です。と、いうか、「思想史」はここで終わりです。
最終回はここまでのことをふまえて、主の福音について書きます。
ではまたいずれ。主にありて。マロでした。( ・ิω・ิ )/