更新が遅くなってしまったので、今日は前置きなしに行こうと思います。今日はこの連載の中でもちょっとした山場です。

3人の若者が森を歩いていると3人の醜悪な死体が向こうからやってきて若者たちに告げた。「かつての私は今のお前。今の私は未来のお前」

「3人の死者と3人の生者」という13世紀の物語の一節です。この話をモチーフに、15世紀の画家達は手をかえ品をかえ、自分に迫り来る「死」そのものを表現しました。これらに代表されるのが「死の凝視(マカーブル)」という絵画の風潮でした。それは腐り行く屍を写実的に表現し、死者の醜悪さを強調するような独特の風潮であり、ルネッサンスへの橋渡しとなりました。この中で「死そのもの」の象徴として描かれたのが、骸骨の姿をした「死神」でした。今でこそ「死」を表現するのに骸骨を用いるのは当たり前のことですが、少なくとも14世紀まではそれは決して一般的なことではありませんでした。日本では骸骨が 「死」の象徴として認識されたのは西洋文明の流入した明治時代以降のことです。それまでは日本では死者を人魂や幽霊として表現することはあっても、骸骨で 表現することは、皆無ではありませんが少なかったのです。それにそもそも「死者」を表現することこそあれ、「死」そのものを表現することがなかったので す。そのせいか、今でも日本人は「死そのもの」に対して認識が薄いのです。日本人は中世のヨーロッパの絵に描かれた骸骨を「死を司る者」として認識してし まいがちです。しかしそれは「死を司る者」ではなくて「死そのもの」なのです。

西洋での「死」の顕在化の何よりも大きな原因は、 14~17世紀にヨーロッパで猛威を振るったペストです。特に1345年から1350年にかけての流行ではヨーロッパの全人口の3分の1がこの病によって 命を落としたとされています。無人となった村や町は20万にもおよび、教皇クレメンスの行った統計によれば、その死者数は42,836,486人です。この後もペストはほぼ10年おきに流行し、「都市の人間にとって一生の間に少なくとも一回のペスト流行を体験し、家々と共同墓地との間を行き来する二輪荷車を茫然と見物したことがあるのは普通のこと」でした(ジャン=ドゥリュモー著「西洋における恐れ」)。1665年のロンドンはペストを他の地域に比べてかなり上手く押さえ込んだと言われました。しかしその時のロンドンでさえ「転がる死体を目にすることなしに通りを一本抜けるのはほとんど不可能」でした (D.デフォーの日記)。

ヨーロッパの人々は強制的に、死を凝視し、顕在化させざるを得ない状況に、このペストによって追い込まれたので す。ペストによる死は「誰々の死」などと、一つ一つの死に注意を払うことを人々にまったく許しませんでした。数としての死、あるいは住民が全滅した町では、数えられることさえない死、です。「死」は人の意思も尊厳もまったく無視して、しかも戦争のような殺意も恨みもなく、ただそれそのものとして人々に訪 れたのでした。

この伝染病の流行は「死の思想史」における最大の出来事です。ペストによる心理的衝撃はヨーロッパの人々に深いトラウマを植え付けました。また、それまで築き上げた死に関する慣習や秩序が根本から破壊されました。人々は「死とは何か」と、「死者」でも「死後の世界」でもなく 「死そのもの」についての考察を始めました。それは自ずと哲学や倫理に影響を与え、17~8世紀の啓蒙の時代への地盤を形成していくのです。

今日はここまでです。
ペストがそんなに恐ろしい被害をもたらしただなんて、僕もこのレポートを書くまで知りませんでした。本当に、想像を絶しますよね。そりゃ、死生観もひっくり返ります。

ではまたいずれ。主にありて。マロでした。( ・ิω・ิ )/