今日は教会で年に一度の総会があったものですから、色々決まりましておかげでこのブログにもさっきからバンバン投稿しておりますが、ちゃんと今宵も行きます「死の思想史」!毎日やらなきゃまにあいませんから、イースターに。おかげさまで第4回!!

参ります。

人は倫理を得たからと言って、必ずしもその倫理に従って生きられるとは限りません。むしろ多くの人は自分が倫理に照らせば好ましくないことをしながら生きているという自覚を持っているのではないでしょうか。それは倫理が発達すればするほどそうです。

善を行えない自分は天国には行けない。地獄に堕ちなければならない。が、それは避けたい。ならば赦しを乞わなくてはならない。ここに「贖罪」という思想が現 れます。ここでいうのはもちろん主イエスが十字架で達成した贖罪ではありません。自分が赦されるため、家族が赦されるための、バーターとしての贖罪です。 有名な例としてはローマカトリック教会の煉獄思想や免罪符が挙げられますが、これはローマカトリック教会によって作り出されたものではありません。人々が自然と持っていた漠然とした贖罪思想に、カトリック教会が形を与えて結晶化させただけのものです。煉獄と同じような思想はヨーロッパに限らず、世界各地にみられるのです。輪廻を信じる地域では、より良い転生を得るためにと、寺社が人々に多額の寄付を求めました。今の日本の戒名のシステムはまさにこのなごりです。それも一つの「贖罪」なのです。

そして、「罪」という概念は、「贖罪」の概念から産まれました。贖罪思想以前にあったのは「悪」で あって「罪」ではありませんでした。「罪」は「埋められなければならない欠け」です。悪によって自分の人生が欠け落ち、その欠けは贖罪によって埋められなければならない。故にその欠けが凝視され、「罪」となりました。

「死」が「善悪」を、「善悪」が「罪」を生み出しました。「善悪」は他者のもの、「罪」は自分のもの。ここに来て初めて「死」は他者のもの、客観的な観察対象ではなく、自分自身の問題になったのです。

今日は以上です。
「贖罪」と「罪」というのは聖書にも頻繁に出てくる概念なので、表現するのが難しいのですが、今回ここに書いたそれらは聖書で同じ言葉で表現されているそれら とは別のものです。クリスチャンでない、一般的な日本人が思う「贖罪」「罪」という概念でのそれが近いと思います。うーーーん、難しい、自分で書いておきながら言うのもなんですが、難しい。もっと日本語を学ばないといけないですね。修行不足です。すみません。ではまたいずれ。主にありて。マロでした。( ・ิω・ิ )/