今日は絶好のお花見日和でした。日本人が桜を好きなのは日本人の死生観にも関わっているのだとか。美しく咲いて潔く散る。そしてその散り際こそ美しい。そういう日本独特の死生観は尊重すべきものです。その死生観だけで十分、研究の対象になると思います。しかし、今書いているこのコラムは主として西洋思想に おいての死生観の歴史です。大学での専門が西洋倫理学だったものですから、日本の思想にはあまり詳しくないのです、あしからず。

さて、今宵も始めます。

死後の世界の問題は「私はどこへ行くのか」という問いではなく、「彼らはどこへ行ったのか」という問いから始まったのでした。これは自然なことです。なぜなら「死」は常に他者の目で観察され、主観的に観察されることはないからです。少なくとも生者にとっては。
「自業自得」「悪業悪趣」これらは仏教の用語ですが、仏教に限らずこの種の思想は世界中に存在しました。簡単に言えば、善人には幸福、悪人には不幸が訪れるべきである、という思想です。この思想の影響で、「死後の世界」はすぐに二分化しました。「天国」と「地獄」です。この2つの「世界」は世界のあらゆる地方に存在します。

「あの人は良い人だったから天国に行っただろう」「あいつは悪い奴だったから地獄に堕ちただろう」人々は皆、思い思いに死者たちを「選別」しました。最初は単純な基準だったかも知れません。味方は天国に、敵は地獄に。しかしそれは次第に、しかし急速に複雑化していきました。 そこにもう一つの問いも浮かびました。「では自分はどうなのか」。こうしてその「選別」の対象は過去の「死者」から現在の「生者」に広がりました。「どうであったか」から「どうなのか」に問いが広がったのです。「何をした人が天国に行ったのか。何をした人が地獄に行ったのか。今何をすると天国に行けるのか。何をすると地獄に堕ちるのか」。天国に行ける行為が「善」となり、地獄に堕ちる行為が「悪」となりました。倫理の起源はここにあります。人の最も根源的な恐れである死から、人が生きるに不可欠なルールである倫理が発生したのです。また、その倫理が、死に対する思想をさらに深化させました。「天国と地獄」と「善と悪」はニワトリとタマゴの関係にあります。「天国と地獄」から「善と悪」が産まれたのも事実ですし、「善と悪」から「天国と地獄」が産まれたのも事実です。

今日はここまでです。
ええ、聖書の教えとは少し矛盾する箇所もありますが、これは現時点ではあくまで人類学的な死に関する思想へのアプローチなのだと思って読んでいただけると幸いです。だからあの「お前はそれでもクリスチャンか、このやろー!」とか言わないで下さいませ。最終的にはどの学問も、突き詰めれば聖書に通じます、はい、たぶん。

あ、ちなみに明日は「棕櫚の聖日」です。主イエスがエルサレムに入城したことを記念する日です。そしてこの「棕櫚の聖日」からイースターまでが受難週になります。主イエスの受難を覚えて、人によっては断食をしたり、肉食を断ったりすることもあるようです。僕も断酒くらいはしようかと思います。

ではまたいずれ。主にありて。マロでした。( ・ิω・ิ )/