主の御名をあがめます。

マロです。

急に本格的な夏がやってきて、ほんとに本格的に熱いです。ついつい冷たいものをガブガブ飲みたくなりますが、あんまり冷たいものばかり飲んでいるとお腹を壊したりしますから、どうか皆さまもお気をつけて。僕は仕事の打ち合わせのたびにアイスコーヒーを飲むので先日それでお腹を壊して駅でピンチに陥りました。主の守りが与えられたのか、ことなきを得ましたけれど。

さて、クリスチャンにとっては「主イエスに従う」ということが、人生の一つの重要な課題、命題になるわけなんです。「主に従う」というと、ついつい「人生をお捧げします」とか「命も惜しくありません」とか大仰なことを言いたくなってしまったりするんですけれど、「主に従う」というのは必ずしもそんな大仰なことではなくて「小さなことに忠実な者は大きなことにも忠実です」と聖書に書いてあるように、小さなこと、些末なことでも「主に従う」という気持ちが大切なわけです。いえむしろ、小さなこと、些末なことに見えるものにこそ、クリスチャンの忠実さが問われるわけでございます。

で、どんな「小さなこと」を要求されたら、僕は従うことを躊躇するかなーって考えてみたんです。「私のために死になさい」とか、そういう「大きなこと」は抽象的すぎて現実味もないですし、なんか大言壮語して「できる」って割と無責任にでも言えちゃいそうな気がしませんか。だから僕は小さなことを考えてみたんです。

それで思いついたのが、少々下品で恐縮ですけれど、例えば冷たいものを飲みすぎてお腹を壊し、駅のトイレで大ピンチを迎えた場合です。脂汗を流しながら我慢に我慢を重ね、波のように襲って来るピンチを凌ぎに凌ぎ、やっと自分の順番が回って来た!って時にイエス様に「その順番を私に譲りなさい」と言われたら、これはもうかなりリアルに「えっ、どうしよう??」って考えやしませんか。もし順番を譲って、ピンチの波状攻撃に耐えられず「大惨事」が起きてしまったとしても、死ぬよりははるかに些細なことですよね。でも人間はプライドがあったりして、これを譲れない。「イエス様に命を捧げます」なら言えちゃう人が、もっとはるかに些細な「トイレを譲れ」となると躊躇してしまう。これが実は偽らざるクリスチャンの姿なんじゃないかと思います。少なくとも僕は「、、、譲れない。ごめんなさいイエス様」って思っちゃいます。

僕もまた当然のように所詮そんな信仰の浅いクリスチャンなわけですが、主に従うって、そういうことだと思うんです。「イエス様にトイレを譲れるか」考えてみていただきたいと思います。

たとえが下品ですみません。

皆さまがそんなピンチを迎えることがありませんように。万一ピンチを迎えてしまったら主の守りが与えられますように。

ではまたいずれ。

主にありて。

マロでした。