マロです。木曜です。今週もお付き合い下さい。
先日、草野球をやったら、めでたいことに人生初ヒットを打つことができました。しかも最終回の同点タイムリーです。嬉しかったー。

さて、こんなことを言いつつ、実は僕は「野球ができません」。僕は生まれつき脚が悪いので走ることができません。故に打っても走塁できませんし、守備で球を追うこともできません。つまり「野球ができない」わけです。しかし「守備ができないならDHでやればいいじゃん。走れないなら誰かが代りに走ればいいじゃん。草野球なんだし誰も文句言わねーよ。」と、そういう心の広い仲間が心の広い特別ルールを適用してくれている故に、野球のできない僕が野球をしているわけです。

何度かそうやって野球をしてみて、僕は学ばされたことがあります。それは「ある場所にいるために、必ずしも役に立つ必要はない」ということです。

僕はずっと「ある場所にいるためには、そこで役に立たなきゃいけない」と思っていたんです。どんな場であれ、そこに自分を置いておく為には、その場の役に立つ人間でなければいけない。そんな風に思っていたわけです。そりゃもちろん、プロの世界ではそうです。結果を残せない選手はチームを去らなければなりません。音楽の世界でも上手に弾けないプレイヤーはバンドを去らねばなりません。基本的に社会はそういう風にできています。役に立たなければその場にいられない。しかし、すべての世界がそうとは限りません。少なくとも趣味とか遊びの世界は、社会から離れられるから楽しいわけで、そこでは必ずしも役に立たなくてもいい。

子どもは、特に赤ちゃんのうちは家族の役には立ちません。むしろたくさん迷惑(?)をかけるわけですが、もちろん家族の中にいていいわけです。それは考えてみれば当たり前のことなのですが、気付いてみたら「ハっ」とさせられました。意外と、僕以外にもそういう束縛の中で生きてしまっている人っているのかもしれません。と、「レフトには球は飛ばないし、もし飛んだら落としてもいいから。人数足りないからとりあえず立っておいて」って言われてレフトの守備についてボケーッと立っている時にそう思いました。「あー、これでも意味があるんだな。球は取れなくてもここにいるだけで意味があるんだな。そういうことって実は世の中に多いな。」って思いました。

あらゆることに「役割」がつきまとってしまっていませんか。例えばバーベキューに行ったら「火を起こす人」「材料を用意する人」「焼く人」「飲み物係」「片付け係」「車を出す人」などなどの「役割」の中から少なくとも一つは「自分の役割」としてやらなきゃいけない、と思ってしまっていませんか。それができないと「申し訳ない」と後ろめたくなっていませんか。別に良いんです、そこで何の役にも立たず、食べたり飲んだりしていても。もちろん、役に立つことは良いことですし、役に立った方が楽しいかも知れません。でも、役に立たないからと言って後ろめたい気持ちになる必要はまったくありません。それに自分で分からなくても、人から見たら役に立っていることって、意外とあったりするのです。「あの人がおいしそうに食べてると、楽しくなるよね」とか「疲れた時に、あの人の側に行って休むとホッとする」とか。

また今回も聖書の話をしますが、聖書的に言えば人生もまたそうなのです。役割なんかなくても、人生の場にいていいんです。即ち生きていいんです。アダムとイブはエデンの園で何ら「役割」を与えられませんでした。ただ神の作ったその楽園を享受すれば良かったのです。イエス・キリストも誰かを「君は役に立つから救おう」と言って救うわけではありません。むしろ反対に「弱い人、罪人から救います」と言っています。神様の視点から見れば人間レベルで「役に立つ」か「役に立たない」かなんて、まったくどうでも良いことなのです。

「あ、そうかー。役に立たなくてもいいんだ!よし、ならばこの野球の休日をひたすら楽しみ尽くそう!」と心から思えた直後の回で、僕は初めてのヒットを打つことができました。ありゃま!とっても役に立ってしまいました。役に立とうなんて思わなくても、そこにいれば期せずして役に立つこともあるのです。そんなこともあるのですからやっぱり「役に立たなくてごめん」なんて思わなくて良いのです。気楽なことは気楽にやりましょう。「楽しむことが何よりの貢献」ですよ。神もアダムとイブが楽園で与えられた命を楽しむことを何よりも喜んだのです。

ええ、だからこのコラムも、誰の役にも立たなくても勝手に続けますからね。そのうち誰かの役に立つことがあるかも知れませんし、役に立たなくても僕が楽しんで書いているのだから、それで良いのです。ではまたいずれ。マロでした。