木曜です。マロです。今週もお付き合い下さいませ。

さて第21回から6回にわたって続けてきた「不幸を乗り越える5つのプロセス」シリーズも今回が最終回です。『否認=疑い』『怒り=問い』『取引=吐露』『抑うつ=休息』と一つ一つ考察を加えてきて、いよいよ今回は最後のプロセス『受容』について考えます。

実はここまでの4つのプロセスって、襲ってきた不幸を何一つ解決していないんです。せいぜい解決するための材料と環境を整えたに過ぎません。そもそも解決できる問題であればそれは不幸ではないわけです。ここまでずーっと語っているのは解決不能な問題とか回避不能な不幸についての対処法です。と、いうわけで今回の『受容』も問題を解決するプロセスではありません。問題と「共存」するプロセスと言った方がいいでしょう。

僕は年中、聖書やキリストを例に出すので「もういい加減に飽きたよ」という方もいるかも知れませんね。

わかりました。

それじゃ今回は仏陀さんで行きましょう。クリスチャンのくせに、しかも教会のブログのくせに仏陀を語るなって?まぁいいじゃないですか、たまには気分を変えてみましょうよ。

仏陀の教えに「四諦」という言葉があります。字面だけ見れば「四つのあきらめ」です。「あきらめる」というとどうも消極的に思えてしまうのですが、「あきらめる」というのは「共存する」と言い換えることができます。まず「四諦」を簡単に要約してしまえば「人生は色々と苦しいものだから、苦しみと共存しなさい」ということです。ものすごく大雑把な要約なので叱られてしまうかも知れませんが、少なくとも僕はそう解釈しています。「四諦」の「諦」という字にはもちろん「あきらめる」という意味もあるのですが同時に「つまびらかにする」とか「明らかにする」という意味もあります。「四諦」は「四苦」即ち「生・病・老・死」の四つの苦しみについて(他に八苦もありますが、長くなるので省略しますよ)単に「あきらめて共存する」だけでなく「その性質・原因を明らかにする」ものでもあります。「その性質・原因を明らかにする」ことにより「共存」が可能になり、また「共存」することによって「その性質・原因を明らかにする」こともできます。円環。ニワトリとタマゴの関係です。二つの意味は一体であると言ってもいいのでしょう。

原因を明らかにする、と言っても「死ぬ原因はガンだ」とか「フラれた原因は僕が頼りないからだ」とか、そういうレベルのものではありません。「死は誰にでも訪れる避けられないものだ。だから僕も死ぬ」とか「愛する人と別れることも人が生きている以上避けられない苦しみだ(愛別離苦)。だから僕にそれが訪れるのも当然だ」とかそういうレベルの話です。因果律に従って「原因が分かれば解決策も見えてくる」なんていうものではありません。最終的にすべての不幸の原因が「僕が人間として生きているからである」となるような話です。仏陀は言うのです。「苦しみは避けられないが苦しみを克服する道はある。しかしその道は苦しみとまず共存し、その性質・原因を明らかにしてこそ開かれる道である」と。苦しみを避けているうちは、もちろん苦しみと共存することはできませんし、故に決して苦しみを克服することはできないのです。

さて、慣れない仏教の話はこのくらいにして、やっぱりいつものホームグラウンドの聖書とキリストに戻ることにします。キリストは、ゲッセマネで『取引』と『抑うつ』のプロセスを経た後は、自分から進んで十字架に向かって行きました。証拠不十分な裁判であったにも関わらず、自分からどんどん不利な証言をして、十字架刑へと向かっていきました。この姿勢から僕は思わされました。不幸はただ受け身で受容するだけではダメなのだと。むしろ自分から不幸をお出迎えするくらいの気持ちでいなければ真に『受容』したとは言えないのだと。

仏陀はたくさんの苦行をしました。その上で苦行は悟りに至るものではない、と言いました。キリストの行動とは矛盾するようにも見えます。苦しみは積極的に迎えればいいのじゃないかと。しかし「出迎える」のと「訪ねていく」ことは違います。自分の家のドアを開けて、やってくる人を出迎えるのと、自分から他人の家に出向いてドアを叩くのとは全然違います。キリストがやったことは前者、仏陀が否定したものは後者です。

確かめて。

問い。

思いを吐き出し。

力を蓄えて。

共存する。

『否認』『怒り』『取引』『抑うつ』『受容』この5つのプロセスはこういうことに言い換えることができます。これが不幸を乗り越えるためのプロセスです。裏付けがキリストや仏陀なのですから、きっとある程度は間違いないんだと思います。エラそうに色々書いてきましたが、あくまで、僕はそう思っている、というだけです。しかもなかなか自分でも実践できません。でも、いずれやってくる自分の死に直面する時に、少しでもこのプロセスを上手に踏むことができたらいいな、と思っています。そのために、少しずつでも精進して生きていければいいな、と思います。死を考えることは即ち生を考えることですし、不幸を考えることは即ち幸福を考えることと同じです。

6回にわたって語って参りました「不幸を乗り越える5つのプロセス」、その解釈に最終的な正解はないと思います。皆様なりにアレンジして、使いやすくして、よかったら活用してみて下さいね。ではまた来週。
主にありて。マロでした。