第21回から連続して「不幸を乗り越える5つのプロセス」について書いています。その5つのプロセスについて先々週は『否認=疑い』先週は『怒り=問い』について書きました。今回はそれに引き続き『取引』の段階について書きたいと思います。

人は不幸に見舞われた時、「うそだろ?」という『否認』、「どうして僕が?」という『怒り』に続いて「なんとかしてくれ」という『取引』の心境に至ります。余命宣告をされた患者が医者に「お金なら1億円払うから何とか助けて下さい」とか、神様に「これから清く正しく生きますから助けて下さい」といった取引を持ちかけるのがこの段階です。別れを切り出された恋人に「これから優しくするからやりなおそう」と持ちかけるのも同じです。サッカーや野球などのスポーツで試合終了直前に大差で負けていて勝ち目のない方が「それでもやれるだけのことは最後までやってやる」と諦めずにガムシャラにプレーするのもある意味では同じです。こういった行動は言い換えれば「回避」とも言えます。目の前に現れた事態を何とかして回避しようとしているのです。ほんのわずかな可能性にでも賭けてみているのです。

この回避行動によって、本当に回避できる不幸もあります。まだ保険の認められないような新しい治療法を試してみたら奏効して病気が治ってしまった、ということもあり得ますし、諦めなければ9回2アウトからでも起死回生の満塁ホームランが出ることだってあるでしょう。回避できてしまえば、その不幸はそこで終わりです。これ以上先のプロセスに進む必要はありません。ですからこの『取引』も理にかなった行動であるわけです。決して不健全で否定されるべき行動ではありません。

しかし一方でどうしても回避できない不幸もあります。いくらお金を積んでも治らない病気は治りません。不合格になった試験は、よっぽどのことがない限り、いくら「入学したら一所懸命に勉強しますから」とお願いしても合格にはしてもらえません。そんな不幸に見舞われてしまった時、頭では無駄だと思っていても、それでもやっぱり首をもたげてくるのがこの『取引』という心です。誰しも不幸な事態は嫌いですから、それをなんとかして避けたいと思うのは自然の理であって、誰にも責めることはできないでしょう。「どうしようもないなら潔く受け入れろ!」というのも勇ましくて聞こえは良いのですが、必ずしもそれが正しいとも限りません。表向きには潔くそれを受け入れた人でも、心の中ではどこかで「回避したい」という心が生じているはずです。それはもう、人間である以上、仕方のないことですし、むしろ健全なことです。そして生じてしまった心を無理に押し込めて、なかったことにしてしまうのは良くないことです。

第21回のコラムで「この5つのプロセスを踏まずにいきなり『受容』の段階に至れるのはキリストか仏陀くらいのもの」なんて、ついうっかり僕は書いてしまいましたが、すみません、ウソを言いました。お詫びして訂正いたします。イエス=キリストがこの『取引』のプロセスを十字架での死の前に経ていることは聖書に何度もはっきりと記されていました。キリストは、翌日の自分に何が起こるのかをはっきりと予見した上で、十字架につけられる前の晩にゲッセマネという場所で神に祈りました。「父よ、できるならばこの杯を私の前から取りのけて下さい」つまり「神様、私は十字架につけられるのは嫌です。何とか回避できるならば回避させて下さい」と祈ったのです。キリストでさえ、絶対的な不幸を目の前にした時、神に回避を乞うたのです。神の子でない、ただの人間である僕たちが同じことを願って何の不思議があるでしょう。何の不健全さがあるでしょう。

ただしキリストは祈りの最後にこう付け加えました。「しかし、私の思うようにではなく、あなたの思うようにして下さい」つまり「僕は嫌ですが、あなたがどうしてもと言うなら、それに従います」ということです。「回避」はしましたが、「回避」に固執しませんでした。それはもしかしたら「回避」ではなく「吐露」と言った方がふさわしいのかも知れません。事態を受け入れるためには「自分はそれは嫌です」という本音を神に吐露する必要があったのです。このように『取引』を「吐露」と考えると、さらにそれが人間にとって必要かつ健全な行動だと思えてきます。医者に「1億円だすから何とかしてくれ」と言うのは、本当に1億円で命が助かると思っているわけではなく、「助かりたい」という思いの大きさを表す尺度として「1億円」という数字を出しているだけなのです。恋人に別れ話を出された人が「優しくするから」というのは「別れたくない」という思いを表す尺度として「自分が変わってもいいくらい」という表現を用いているのです。スポーツ選手が敗色濃厚でも最後までガムシャラにプレーするのはもはや勝つためではなく「負けたくない」という思いを最後まで貫くためです。

死を前にした時、避けたい、死にたくない、生きたい、というのが多くの人の本音でしょう。その「生きたい」をしっかりと表現すること、これが死の『受容』に至るためには必要なことです。死ではない、他の不幸にしても同じことです。「それは嫌だ」という気持ちをしっかりと表現することは、その不幸を乗り越えるために必要不可欠なことなのです。「やるだけやったんだから仕方ない」と思えるのは強いのです。試験でもスポーツでも最後までやるだけやった人は、ダメだったその場では激しく悔しがりますが、その後での立ち直りは早いものです。短期間で立ち直って、次の目標に向けて走り出します。失敗を長く引きずってしまうのは、その「やるだけやった」がなかった人です。「悪あがき」と揶揄されてもいいんです。それは次のステップのために必要なことなんですから。

不幸に見舞われたら「吐露」が大切。信頼できる人にでもいいし、神様とか何か信じるものにでもいいです、とにかく自分のありのままの本音を言葉にせよ、行動にせよ、何らかの形で「吐露」することが大切なんです。海とか山に行って、誰もいないところに向かって「嫌だーーーーーーーっ!!」と思いっきり叫ぶだけでもすっきりするかも知れません。

近頃、このコラム毎回長めですね。だいたい毎回2500~3000字、原稿用紙にして6~7枚分です。読んでて疲れませんか。疲れるなら短めにするのでご意見下さいね。

それではまた来週。主にありて。マロでした。