木曜です。マロです。今週もお付き合い下さいませ。

さて、第21回で取り上げた「不幸を乗り越える5つのプロセス」を一つずつ検証してみようという近頃のこのコラム、先週の『否認』に続きまして今回は『怒り』について考えてみようと思います。

不幸に見舞われた時「なんで僕だけこんな目に遭うんだ」とか「どうして僕がこんな目に遭わなきゃいけないんだ」とか、そういう怒りを覚えるケースは多いものです。その怒りを表に出すかどうかはさておき、心の中でそういう思いを抱くことは決して珍しくないと思います。それは言い換えれば「問い」とも言えます。「どうして?」「なんで?」という、その事態をもたらした存在への問いが「怒り」として外に現れるのです。怒りというものを観察してみると、実は大抵の怒りは問いなのだ、ということが見えてきます。怒っている人の台詞をよく聞いてみると「どうして?」「なんで?」という言葉が非常に多いのです。

怒りと言うと、あまり良くない感情であると思う人が多いのでしょうが、聖書を読むと必ずしも怒りは悪い感情であるとはされていません。有名な「七つの大罪」の一つに「憤怒」がありますが、実はこの「七つの大罪」という概念は4世紀に生まれた概念であって、聖書自体にはその記述はありません。それに、ここで挙げられている「憤怒」というのは「激情」とも訳されます。つまり「感情のコントロールを失った状態」を指しているのであって、コントロールされた正当な怒りを否定したものではありません。その証拠に聖書の中ではキリストが怒るシーンがいくつか描かれています。一番有名なものは「宮清め」と言われるもので、エルサレムの神殿で商売をしている人達に対して「神聖な場所で商売をするとは何ごとだ」とキリストが怒り、商人達を追い払う、というエピソードです。また、旧約聖書を読めば神が怒るシーンは枚挙に暇がないほどです。正当な怒りは罪ではない、というのが聖書のメッセージです。これらの怒りもまた、「問い」と言い換えることができます。「宮清め」の怒りは「ここは聖なる場所なのに、どうして君たちは商売をしているのだ?」という問いですし、旧約聖書の神の怒りは「君たちは選ばれた民で、私はこんなに君たちを祝福しているのに、どうして私をないがしろにするようなことをするのだ?」という問いです。

怒りとは強い感情や行動を伴って問うことなのです。このように「問い」と思えば「怒り」が必ずしも悪いものではないと理解しやすいのではないでしょうか。神に問うことは決して罪とはみなされません。天を見上げて「神様、どうしてですか?」と問うことはモーセ、アブラハム、ヤコブ、ヨナ、イザヤ・・・と、聖書に出てくる多くの偉人達が皆、しょっちゅうやっています。キリストでさえ、神に「どうしてですか」と問うています。そしてそれはむしろ良いことだとされています。問うということは答えを求めている、ということであり、それは神の言葉を待ち望むことであるからです。それは祈りの一種なのです。

「怒らない人がいい人」というイメージが世間には定着しています。怒りっぽい自分の性格を直したい、と悩んでいる人も多いかも知れません。しかし、「怒りっぽい人」は「よく問う人」なのです。神に対して怒る人は「よく祈る人」なのです。そう思えば、怒りだって必ずしも悪い感情ではありません。むしろ有益でさえあります。もちろん、むやみやたらに怒ったり、八つ当たりのように怒ったり、そういうことは良くありません。最初に書いたように、感情のコントロールを失った状態になることは良くありません。そういう状態を防ぐため、感情のコントロールを保つためには「怒りは即ち問いである」という視点が非常に有用です。怒りが生じた時に、「自分は今、何を問おうとしているのか」と考えてみるのです。そうすれば怒りに伴う激情に振り回されることなく、自分の言動をコントロールすることができます。問いである以上、目的は答えであるはずです。答えを求めるために時には強い言葉や行動も必要かも知れませんが、あくまでも目的は答えであって、相手への攻撃ではありません。

報復というのは怒りの一種ですが、では果たしてこれも問いだと言えるのでしょうか。確かに報復には問いが含まれません。その目的は答えではなく、相手への攻撃です。しかしこれも歪んだ形の問いであると言うことができます。それは答えの与えられなかった問い、行き場のなくなった問いなのです。「やり場のない怒り」「行き場をなくした怒り」とは答えてくれる人がいない問いです。答えが欲しいのに、その答えを持っている存在がいない、誰が答えを持っているのか分からない、または答えを持っている人が答えてくれない、そういう問いがこのタイプの怒りです。しかしそれでもまだ怒りは答えを求めているのです。自分の目的は何かへの攻撃ではなく、あくまで答えなのだ、ということを知っていれば、感情をコントロールすることがしやすくなります。報復の連鎖というのは、互いに答えを与えず、故に互いに問うことをやめ、怒りの本質である「問い」を失ってしまった怒りです。これは明らかに不健全な怒りであり、「七つの大罪」の「憤怒」にあたる怒りです。逆に、怒りに「問い」があり、「答え」を求めている怒りは罪ではないのです。

不幸を目の前にして「どうして」と問うこと、これは人間として自然なことではないでしょうか。時に答えは与えられないかも知れません。余命告知をされてしまった患者はまず医者に問うでしょう。しかし医者もすべての問いに答えられるわけではありません。そこでその問いは行き場をなくしてしまいます。しかしそれでも問い続けること、それが怒りを暴走させないために必要なのです。医者に問うことには限界がありますが、神にはとことんまで、いつまでも問い続けることができます。僕はクリスチャンですから聖書の神に問いますが、皆さんそれぞれ自分の信じるものに問えば良いのだと思います。とことんまで問える相手を持つこと、これはとても大切なことだと思います。

不幸に見舞われた時、人は「どうして?」と問います。この問いを問い続けることが大切なのです。問い続ければ何らかの答えが現れます。その答えが、『受容』に至る重要な鍵になるのです。「怒ってはいけない」と、無理に問いを押さえつければ答えが現れてくれません。『受容』に至る鍵を手にすることができなくなってしまうのです。だから時には怒っていいのです。そこに「問い」がある限り。

ではまた来週。主にありて。マロでした。