今日の東京は夏のような陽気です。そろそろ冷やし中華が食べたい木曜日。ごきげんいかがでしょうか。マロです。

先週はGWまっただ中で、しかもちょうどぴったり僕の誕生日だったので、コラムはお休みさせていただきました。と、いうわけで2週間ぶりの更新です。

誕生日を迎えると「一年の抱負は?」なんてよく尋ねられたりするのですが、僕は毎年「神様のなさるように」と思っています。自分で何かを決めても、必ず予想外のことが起きて、一年後にはまったく思いもしなかった景色に辿り着いている、ということがほぼ毎年なので、僕はもう、そのように開き直るようになりました。

もう10年以上も前ですが、僕に音楽を教えて下さったボストンの師匠が、僕の卒業にあたりこんな言葉をくれました。「Work hard and pray , then, everything will be as it should.」日本語訳すれば「一生懸命やって、祈れ。そうしたら万事、なるべきようになる」ということです。これを僕はずーっと座右の銘にしています。「夢が叶う」とか「願いが実現する」とは言っていないんです。「なるべきようになる」ここのところが、この言葉のミソだなぁ、と思っています。

「自己実現」という言葉が世に溢れるようになって久しいです。「なりたい自分になる」「自分の人生を自分で決める」こういった生き方、考え方に多くの人が共感し、それを行動原理とする人も少なくありません。「海賊王に、俺はなる!」の、あのマンガは僕も好きです。時として勇気や元気をもらうこともあります。

しかし、こういう生き方は疲れる人には疲れる生き方だと思います。もちろんそれはそれで素晴らしい生き方ですが、みんながみんな、そのように生きる必要もないと思います。自分でプランを立て、目標を立て、実行して、生きてゆく。これは元気な人にはできますが、元気をなくしてしまった人にはあまりに高いハードルです。

「まず目標を立てることから始めよう」と言われても、「まず、それがしんどいです、目標を持てるくらいならこんなに落ち込みませんって」っていう方もいることでしょう。「自己実現型人生」は一つの有意義な人生のモデルではありますが、そうじゃないモデルで生きるのだって、一つの道ではないでしょうか。

はい、ここで木曜コラム名物「聖書」の登場です。「またかよ」って言わないで。教会のコラムなんだから当たり前でしょう!

さて、そんなわけで聖書を紐解きますと、そこにはたくさんの人物が登場しますが、その中で「偉人」とされている人達の中に、実は「自己実現型」の人生を送った人はほとんどいません。有名なところでは、アダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨシュア、ダビデ、イザヤ、ヨナ、ヨブ、ペテロ、パウロ・・・と、みんな「俺は◯○になる!」と言って偉業をなしとげたのではありません。

しいて言えばイエスさまだけは確固たる己の意志でもって活動したのですが、あの方は神様ですからね、いろいろと特殊です。ここでそれを語ると長くなるので飛ばしますが、少なくとも単純な「自己実現型」ではありません。あの方は「俺は神になる!」と言って神になったわけではなく、ヨハネの福音書の冒頭にある通り、最初から神様ですからね。特殊なんです、ほんとに。

モーセは「俺はイスラエル人をエジプトから救い出す!」なんて自分で決めたわけではありません。むしろ神様に「君、エジプトからみんなを救い出すリーダーやってね」と言われて、「そんなこと、いきなり言われても僕にはできません。他の人にやらせてください。ほんとムリです。勘弁して下さい。このまま静かに生きさせて下さい」と、その任務から全力で逃げようとしたくらいです

ダビデ王も「俺は王になる!」なんて思って王になったわけではありません。ある日突然神様から「君、今日から王ね。よろしく」と言われて「うそー!?何言ってるんですか、そんなのムリです。だって僕、ただの羊飼いだし」という感じです。他の人達も、まぁだいたいそんな感じです。

彼らに共通するのは「自分で切り開く人生」ではなく「神に委ねた人生」を送ったということです。「自分の意志とか希望ではないけれど、神様がそう言うなら、神様の思うようにして下さい」と、自分の人生を大きな力に委ねた点です。神様はそういう人を祝福するのだ、と聖書には書いてあります。

 

自分が何者であるか、自分が何者になるかは、必ずしも自分で決めなくても良いのではないでしょうか。僕はクリスチャンなので自分が何者であるかは神様が決めること、と思っていますが、神様を信じていなくても、自分が何者であるかは自分と会う人がその都度決めてくれればいい、とそのくらいのスタンスでいても、人生は破綻しないはずです。人生には本当に、思いかげない転機があるものです。その転機はある人には神が与えたものでしょうし、ある人には周囲の人が与えたものでしょう。偶然の転機だってもしかしたらあるのかもしれません。その転機を待って、その転機に従う、という生き方もまた、一つの良い人生のモデルなのではないでしょうか。

僕はクリスチャンになる前から、どちらかと言うとそんなモデルで生きています。アメリカ留学をして「夢を実現してすごいね」と言われたりもするのですが、実は自分で「留学したい!」と思ったことはほとんどなく、目の前のことをやっていたら自ずとそういう道が開けた、というだけなのです。むしろアメリカに自分が行くなんて、その話が出るその日まではまったく思ってもみないことでした。そして、あれよあれよと言う間に、気付いたらボストンの街に立っていました。途方に暮れることもありましたが、「必要を満たしてくれる神様」を実感する生活を送ることができました。

行政書士になったのも「行政書士に、俺はなる!」と強く決心したわけではなく、ふと法律に興味が涌いた日があり、その興味を追っていたら自ずとその道が開けた、という感じです。クリスチャンになったことも、「クリスチャンに俺はなる!」なんて決めていたわけではありません。むしろクリスチャンは大嫌いで、上馬キリスト教会に石を投げ込んでやろうかとか思っていたくらいです。ただ、自分の外側と内側の「風」がそのように吹いて、それに身を任せていたら、ここに流れ着いていた、と、そういう感じなのです。

「そんな主体性のない人生を送ってはいかん!」と怒る方もいらっしゃるかも知れませんが。でも僕はこの生き方をそれなりに気に入っていますし、この方が幸せなのです。ですから、「こんな生き方もあるよ。実際にそう生きている奴もいるよ」とちょっと書いてみました。

ただ、冒頭の師匠の言葉「Work Hard」の部分、目の前のことを全身全霊でやる、というそのことはこの生き方においても大切なのかな、と思います。僕はよくこれを「出されたご飯は全部食べる」と表現しています。神様が与えて下さったものは、恵みも試練もすべてまっすぐ受け止める。これが師匠の言う「Work Hard」なんじゃないかと解釈しています。

これからだんだん暑くなりますから、体調を崩さないように気をつけて下さいね。「熱中症に、俺はならない!!」と、そこはかたい決意を持って生きた方が良いと思います。ではまた来週。主にありて。マロでした。