木曜コラム第16回「物語と伝説と歴史」

みなさまいかがおすごしでしょうか。木曜です。マロです。今週もお付き合い下さいませ。

 

皆様、「物語」と「伝説」の違いはご存知ですか?

有名なグリム兄弟の定義によれば「物語」は例えば「むかし、あるところに」と始まるもので、具体的な地名と年代が示されていないお話を指します。一方で伝説というのは「xxxx年に、フンジャラモンジャラという町で」などと具体的な地名と年代が示されているものを言います。「○○天皇の御代に」などと示してあるのもその「◯◯天皇」の在位期間を調べれば年代が特定できますから「伝説」と分類していいと思います。グリム兄弟のうち、弟のウィルヘルムは有名な童話集を編纂しました。これは徹底して「物語」を集めたものです。一方で兄のヤーコプは「伝説」を集めて研究しました。弟の童話集に比べると有名ではありませんし、分量も少ないですが、彼の研究成果は今でも残っています。例えば「ハーメルンの笛吹き男」は「物語」と思われがちですが、実は「伝説」です。

ところで、聖書について「作り話だ!」とか「物語に過ぎない」とか「神話の類ですよね」と評する方々は世の中にたくさんいますが、この定義によるならば聖書は少なくとも物語ではなく、伝説であると言えます。聖書に描かれている出来事は、場所はかなり細かく記載されていますし、年代についても「◯◯王の時代」など、調べればそれなりに分かる記述がなされています。

当然、具体的な年代と地名が示されているからと言って必ずしも伝説がノンフィクションである、とは限りませんが、伝説に書かれている出来事は歴史的に実際に「何かがあった」可能性は物語より高いと言えます。「ハーメルンの笛吹き男」の例でも、実際に笛を吹いて子供をたくさん連れ去った男がいたのかどうかは定かではありませんが、おそらくそこに記されている年代に、子供が一斉にいなくなるような事件が起こったのであろうことは想像に難くありません。

反対に、物語が必ずしもフィクションかと言えばそんなこともありません。歴史や伝説が語り継がれるうちに地名と年代が抜け落ちてしまうということも起こり得るからです。グリムの「童話集」の中にも、もとは伝説であったものも多く含まれているだろうと僕は考えています。日本の「今昔物語集」は「今は昔」と年代の特定なしに始まるのが特徴の説話集で、今回の定義によれば名前の通り物語ですが、同じ理由で伝説的要素はあるのだと思います。

一方でアンデルセン童話や源氏物語は完全なる物語です。それは具体的な作者がいる創作物だからです。現代で言えば明確に著作権がアンデルセンや紫式部に認められている著作物、ということになります。

「牛若丸」で有名な源義経の伝承は伝説です。歴史的事実に基づいてはいますが、五条大橋での弁慶との出会いや鵯越など、後世の脚色であろう部分も多く残っています。歴史は一つですが、一つの歴史から生じる伝説は複数です。複数であるからと言ってどれか一つが正しく、他のものが間違っている、とは言えません。どれもそれぞれいくばくかの真実を含み、いくらかのフィクションを含みます。

歴史そのものは後世になかなか残りません。過去に残っている多くの「歴史書」もたぶんに「伝説」を含みます。歴史が後世に残るにはある程度の伝説化、デフォルメが必要なのだと思います。歴史に、それを語る者の物語を加えて、伝わりやすくしたもの、即ち物語と歴史のハイブリッドが伝説であると言えます。

例えば、新約聖書の「マタイの福音書」と「マルコの福音書」と「ルカの福音書」は共観福音書と呼ばれ、イエスの公生涯という一つの歴史をマタイ、マルコ、ルカの三人三様の視点から描いています。クリスチャンはこれらの福音書を歴史書として尊重していますが、百歩譲ってそれぞれを「伝説」であるとしても、3つの「伝説」から立体的に「歴史」が浮かび上がってくる、と、これらの福音書はそういう仕組みになっています。また、イエスの生涯については、聖書以外にも様々な文献で言及されており、その歴史的実在性は信仰を抜きにして純粋に歴史学的見地に立っても否定し得ないものとなっています。

聖書を「物語」ととるか、「伝説」ととるか、「歴史」ととるか。それはそれを読む私たち一人一人に委ねられています。もちろん、私たちクリスチャンはこれを「歴史」として読んでいます。しかし「どうしても伝説にしか思えない」「やっぱりどう考えても物語だよね」という人がいたって、それは仕方がないことですし、百歩、いや、千歩譲って聖書が物語や伝説であったとして、そこに書いてあることの普遍的倫理としての価値は変わることがありませんから、その視点であっても、大いに読む価値のある書物だと思います。実際、僕もクリスチャンになる前、初めて聖書を開いた時は「物語、あるいは神話」という認識で読んでいました。そして次第にそれを「伝説」、さらには「歴史」と認識するに至ったのです。

人の話を聞くときに明らかに「ウソだな」と思える話でも、その中にいくばくかの具体的事実が示されているならば、その部分は検証してみる価値があります。また、その話の一部分がウソだったからと言ってすべてがウソであることの証拠にはなりません。誰かの話に耳を傾ける時、それが「物語」なのか「伝説」なのか「歴史」なのか、そういう観点を持てると聴き方にも幅が出ます。「歴史」か「物語」かの二極論ではなく、その間の「伝説」という極を持つこと、これは日常生活にもとても大切なことなのじゃないかと思います。

そんな区別を知りつつ聖書に限らず、「物語」や「伝説」を読むとそれまでとは違った視点が開けて面白かったりします。ものすごく荒唐無稽でフィクションとしか思えないお話でも、実は良く読むと「xxx年に○○の地で」なんて書いてあったりします。すると「え?じゃぁ本当に何かはあったのかな!?」と思えるわけです。この「何かがあった」ということは歴史上の何を検証するにも非常に大切なことだと思います。

 

今週はいつもと少し違う趣向で書いてみました。

それではまた来週。マロでした。