木曜日です。マロです。今週もお付き合い下さいませ。

先日の日曜日は仕事の都合で礼拝にいけませんでした。礼拝に行けなかった週は、なんとなく心がスカスカしてイマイチ調子がでません。体に喩えるなら、お腹が空いているような感じです。きゅるるるる。曜日感覚も狂ってしまいますしね。

さて、心と体というのは、かたや目に見える物質で、かたや目に見えないものなので、まったく違う性質のものなのかと思いきや、似たようなものだと捉えると、案外としっくり来たりします。

実は聖書は心と体を並列のものとして扱っています。例えば「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つ一つのことばによる」という一節は、体を生かすパンと心を生かすことば、という形で両者の並列を示しています。

体を健康に生かすためには日々、空気や食べ物を取り入れなくてはいけません。だからみんな食べ物や空気の汚染にはとても気をつかいます。心もこれと同じです。心を健康に生かすためには日々、言葉や感覚を取り入れなくてはいけません。なのにみんな日々取り入れる言葉や感覚には割と無頓着です。体は色々ケアしなきゃ病気になるけど、心は大丈夫!!とか思っていませんか?いえいえ、心だって体と同じように疲れたり病気になったりします。

「体が弱い」人がいるのと同じように「心が弱い」人だっています。多少のウィルスやばい菌程度では風邪にも腹痛にもならない人もいれば、ちょっとしたことですぐに体調を壊してしまう人もいます。同じように、多少のことでは動じない心を持っている人もいれば、ちょっとしたことで心の調子が乱れてしまう人もいます。スポーツ界ではよく「恵まれた体」という言葉を聞きますが、「恵まれた心」というのもあるんだと思います。

どんなに恵まれた体にも限界があります。毎日一定の時間は寝なければ壊れてしまいますし、食べなければ壊れてしまいます。ボルト選手だって100mを8秒で走ることはできません。体に限界があることに異論を挟む人はいないと思います。

一方で心はどうでしょう。心には限界がない、と思っている方も多いのではないでしょうか。「体で負けるのは仕方ない。しかし心で負けるのは自分が悪い」と思っている方も多いのではないでしょうか。そして、そのようなことを過去に言われて傷ついた人も多いのではないでしょうか。

心が弱くたっていいじゃないですか。そりゃ強いに越したことはありません。だけど弱くたって少なくとも責められるべきことではありません。体だって強いに越したことはないけれど、弱く生まれてしまったならそれはもう仕方ないことであって(もちろん、ある程度のリカバーはできますが)誰も責めるべきことではありません。どうして体が弱いことは自分のことでも他人のことでも受け入れられるのに、心が弱いことは自分のことでも他人のことでも受け入れられないのでしょうか。体が頑張れないのは仕方ないけど、心が頑張れないのは自分が悪い、と。心を過大評価してしまっている、心を無尽蔵のエネルギー機関だと思ってしまっている、だから心を酷使してしまう、それで心が消耗し尽くしてしまう、そこに「心の悲鳴」「残酷さ」を僕は感じるのです。そのあたりに、今の社会の「生きづらさ」があるのではないかと思います。

「心が弱い」は「体が弱い」と同じように仕方のないことです。体が弱い人は「自分は体が弱い」と自覚して、周りもそれを受け入れて生活していますが、心の弱い人は「自分は心が弱い」と自覚していなかったり、それを否認していたりします。「気持ちだけは負けちゃいけない」って。でもね、それは受け入れた方がいいのです。自分はもちろん、周りの人も。それは「体が弱い」と同じなんですから。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから(マタイ5:3)」

うわ、でた。また聖書だよ。まぁそう言わずに聞いて下さい。それにここ、教会のブログですからね、教会が聖書の話をしてどこが悪い!海賊が財宝を狙ってどこが悪い!40秒で支度しな!

・・・さて。
これは有名な「山上の垂訓」の一部ですが、ここでいう「心の貧しい人」というのは(この言葉の解釈については聖書学者でも意見の分かれる所ではありますが)これまで書いた「心の弱い人」だと僕は解釈しています。「心の弱い人は、幸せだよ」とイエス様は言っているんです。心が弱いことを悪いことだと言っていないんです。むしろ良いことだと言っています。なぜなら「天の御国はその人のものだから」。どういうことでしょう。そもそも「天の御国」ってなんだよ。

これはこれに続くことばを読むと分かります。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから」。つまり何らかの欠けが神によって満たされることが幸せである、と聖書は教えています。イマイチ分かりづらいですかね。

じゃぁもう、聖書には書いてませんが、僕が勝手に一つこれに付け加えちゃいましょう。「お腹の空いている人は幸いです。その人はご飯をおいしく食べられるから」。お腹の空いた状態って、それ自体は決して幸せではありませんよね。ひもじいし、体に力は入らないし、心もイライラしてきます。でも、その状態があるからこそ、食事は人類共通の幸せな時間なわけです。

同じように「心の貧しい状態」「悲しい状態」「義に飢え渇く状態」もそれ自体は決して幸せな状態ではありませんが、それを満たしてあげればそこには何よりもの幸福が待っている、と、聖書が語るのはこういうことです。そして「それは神である私が満たしてやるから心配するな」というのがイエス様の教えです。たくさん欠けのある人はそれだけ神様に満たしてもらう頻度が高いということです。「神様がかまってくれる回数が多い人」ということになります。言わば「神様のお気に入り」です。それが幸せなことである、と聖書は語っているのです。

体の弱い人には「その人の上に神の栄光がある」と言い、心の弱い人には「天の御国はあなたのものだ」と言い、体にせよ心にせよ、「弱い」ことが幸せである、強さでなくて弱さを誇れ、と聖書は言います。体の弱さだけが弱さじゃないんです、心の弱さも弱さです。同じようにケアして、同じように大事にしていきましょ。心が弱くたって、いいんです。

ではまた来週。主にありて。マロでした。